2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

女の思う表と裏(女が階段を上るとき)

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成瀬巳喜男、1960年。

タイトルロールから全編、ポランスキーの『水の中のナイフ』かと思うほど甘いジャズが流れ、それに似合った酒場が舞台となり、成瀬といえば高峰秀子が遅れて登場し、「夕方、わたしが階段を上るときが一番嫌だ」と言って現状への不満を漏らす。

30歳というのは無理がないか。現状に満足しない状態がほとんどの高峰秀子は時折笑みを見せるが、他は口を曲げて他人を見つめている。商売、金、バーの男女という関係から誘われても「明日連絡します」と言って次の日には断りを入れ、金をとるという「バーの女」を演じ、雇われママも嫌になって金持ちおじさんに頼って自分の店を開こうとするがいい物件が見つからないまま、若い独立した女が借金まみれになって狂言自殺をしてなんとか借金取りから逃れようとしたが酒と薬の予想外の効き目で死んでしまうという悲劇を目の当たりにして嫌気がさし、飲み過ぎて胃潰瘍になってから階段を転がり落ちていく。妻に出奔されたお人好しの兄、金金金のケチな母、雇い主… 病的な虚言癖があるデブが交通事故で死んだ心優しい夫に少しばかり似ていたために身を預け、見事に騙され、《好き》という感情をひた隠しにしてきた銀行の支配人に身を預け、朝になって「大阪に異動になった」と言われて自分が「男に騙されるばかりの都合のいい女」に堕してしまった現実に愕然とする。そこに冒頭からずっと高峰秀子に想いを寄せている素振りを見せるマネージャーの仲代達矢がタイミング悪く現れ、客と寝た高峰秀子を責め、昭和の男を体現するビンタをかまし、「おれがあんたを好きなのはわかってるだろう」と恥じらいをこめた告白をするが、高峰秀子はそれどころではないし近すぎる仲間といっしょになることなど考えられず、この二人の関係も終わってまったくの一人になってまた階段を上る。

 

高峰秀子は二度「もう帰っちゃうの」と言う。女の殺し文句に、なぜだかまったくわからないが、男はすげなく対応する。可愛すぎず、美しすぎず、綺麗すぎず、優しすぎない高峰秀子は中庸で、気が強く、たまに弱り、二元論では分別できない。画面の中心でバストアップは何度も見られる構図だが、その度に異なる顔を見せ、決して派手ではない顔から豊富な表情をつくりだす。

 

バーでは鷹揚に振る舞いながらも外ではやはりケチケチしている美野島という客に食って掛かり、若いマネージャーの仲代に「仕事だろ」と当然のように説教されても「嫌」と言ってきかないところで高峰秀子の反抗が見られてそのまま突き抜ければいいのだが、《普通》に押し戻される。普通の、女の結婚生活。元はといえば普通だったから。夫が死んで新しい場に踏み入れながらも何かにつけて(他人が強制的に)夫を思い返させられ、「そうねえ」と言いつつ、また結婚生活に戻ることを望んでいる。

その相手は酒場で言いよってくる男よりもマネージャーのほうが適任のように思えるのだが、《裏も表も知り尽くしている》仲間のようなやつはダメらしい。これは現代では《普通》ではない。男も女も関係なく相手のすべてを知ろうとする。裏表などあってはならず、裏があるとなれば浮気が疑われ、その裏を徹底的に追求される。まあこの《裏》という語感の悪い言葉のせいもあるのだろうが、現代ではいろいろ知り合っていたほうがいいというのは共通認識になっている。

ボヴァリー夫人、存在の耐えられない軽さ、トゥー・ラバーズ、軽蔑… 結婚詐欺、浮気、DV、怠惰、ヒステリー、束縛… 情報のまわりが早いからか、全世界の恋愛ネタが瞬時に共有され、薄らと脳裏に残り、潜在的な可能性として存在してしまう。悪いほうの想定外は誰しもが避けたがり、できることなら相手を信じたいと思うだろうが、次々と生じてくる可能性はなかなか0にならない。

しかし、間違っているのはその《裏》の可能性を信じているほうで、誰にだって隠れた領域が存在し、それは互いの信頼があるから曝け出されるというようなものではなく自分でも制御できない領域がその《裏》をつくりだしている。高峰秀子が「表も裏も」というのはただの断り文句であり、仕事のうえでの表と裏であり、実生活上はまったく違うのだから納得できるものではないが、マネージャーの「やっぱりあの男が好きだったのか」という納得はまっとうにできる。マネージャーと… という観客の望みはビンタであっさりと消え去る。いくら好きだからってあれだけ「仕事だ仕事だ」と言っていた男が女の顔に傷がつくかもしれないビンタをかますなんて、あまりにも倒錯がすぎる。

《いい男がいない》という成瀬のデフォルメ。

 

この予告編はネタバレ。