ニコラス・レイ 「夜の人々」

多くのシネアストがフェイバリットに挙げる「夜の人々」白黒で、ファーリーグレンジャー(ボウイ)、キャシー・オドネル(キーチ)の愛を映し出す。

二人が抱擁するシーンではキーチの顔がクローズ・アップされる。ソフトフォーカスなのか絞りの問題なのかうっすらとぼやけ、眉は喜びにも悲しみにも呼応してひそめられ、涙が目に浮かぶ、危うさがにじみでるクローズ・アップだ。あくまでも人間として映され、狂気の影はない。元々が善良な二人は絶えず外から脅しをかけられ、逃げ惑い、必死に二人のあいだを守ろうとする。

愛し合う二人以外の人間はすべて敵であり、味方など臨めないはずなのにボウイは危うい綱を渡り、殺されてしまう。若さ、未熟さ。既に聞き飽きた感はあるが、1948年に撮られた本作はいまでも輝きを失っていない。

教訓ではない。冒頭の言葉「二人の真実」を忘れないことだ。

未熟さ。カラックスの「ポーラX」。劣悪な環境によって刑務所に入っていたボウイと底意地のはった親父に囲われていたキーチとは異なる二人、ブルジョワのインテリで真理を追い求める男ピエール(ギヨーム・ドパルデュー)と複雑な家庭により引き裂かれその当時の愛を忘れられずに狂ってしまった女イザベル(カテリーナ・ゴルベワ)。そこにも絶えず他者の干渉があるーー母親、元恋人、元恋人の親族、女の友人、その子どもーーその網に捕らえられ、二人の愛も死によってすぐに終わりを迎えてしまう。

愛は逃げることであり、それが場所の移動を伴うか否かはその二人による。そこに留まりながら逃げるのはより多くの困難を伴う。順風満帆に見える二人にもいっしょにいれば多くの欠点が生まれ、何度も愛が口にされ、使い古される。愛を定義してしまえば限界がくることはわかりきっているのに、愚かな二人は愛を固定化する。

ボウイとキーチはそこまでいかない。キーチが愛を語るが、未熟な二人のあいだは外からの揺さぶり、二人の感情的な言葉による諍いによって決して安定しない。二人は場所を変え、逃げつづけているから、とも言える。

ピエールは元恋人への罪悪感から抜け出せず、イザベルの忠告も聴かず元恋人との三人の生活を認めてしまい、より多くの邪魔者を中に入れてしまう。三人が川沿いをサッカーボールを蹴りながら歩く穏やかさは形容し難い美しさをもつ危うさを見せる。予想通り、そこから抜け出すことはできない。快適かつ幸せな生活などどこにもない。倦怠はすぐに忍び寄ってくるし、いくら二人が愛してる愛してると言っていてもすぐに飽きる。若さ、未熟さはそれを認めない。与えられたものでやっていくしかない、そうキーチは言っていた。イザベルもそうだ。

しかし、女がそうだというのは早急にすぎる。資本主義が生み出す欲望はそこに住まう人すべてに巣食っており、いくら意識的になっていても抜け出すことはできない。何もできないことを二人が認めて、諦めながら生きていくしかないのか。

恋愛ものはすべてケーススタディである。何でもありだといってもいい。愛を語るだけなら藝術でなくてもできる。結局、すべては愛などと言ってもそれが何をさすのか誰もわかりやしない。各人のなかにそれぞれのイメージがあるだけだ。藝術は愛でないもの、ごくごく小さなイメージを表現する。


夜の人々 [DVD]

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