キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』/ エチカ

ユーロスペースで。海外の有名映画監督が日本で撮ったといえばヴェンダースの「東京画」、ホウ・シャオシェンの「珈琲時好」などまあ小津リスペクトが強いものが浮かぶ。今回の主役が隠居したじいさんということで、またそれかと思ったが、物語をきちんと練るキアロスタミはそれだけには留まらなかった。

ジャン・クロード・カリエールという作家兼映画監督がチラシに寄せた文『全ての中心にあるのは、脆くて途切れ途切れの”愛”と呼ばれるものだ。ここでは愛が、その本来の自然な姿のままに示されている。愛ははねつけられ、捨て置かれ、危機にさらされる。だが、それでもなお壊れることなく、不滅なのである』

この人は本当にこの映画を最後まで見たのだろうか。本作は「不滅」の愛を示すような凡百の恋愛映画ではない。

本作に「自然な姿のまま」の愛などどこにもない。社会学者の隠居老人タカシは亡妻の面影を追って、それによく似た明子をデートクラブ経由で手元に引き寄せ、その明子の恋人ノリアキは直情径行型のどうしようもない男で一方的に暴力の影を散らつかせることで明子に結婚を迫る。明子はわけもわからぬままに老人のゲームに乗せられ、それが知らぬ間にプライベートの恋愛に侵入してきてもただ流されるがまま、ノリアキに対する気持ちはますますわからなくなるばかり、挙げ句の果ての裂傷。

ノリアキを華麗な嘘でだましたと思い込み、車の修理までしてもらい、そこでかつての教え子(元警察官)に尊敬の眼差しを送られご満悦の老人は、嘘がバレないか不安がる明子に「ケセラセラ なるようになるわ」と歌う。始めから明子など眼中になく、老人の目の前にいるのは亡妻の若かりし頃の生き写しであり、明子の問題など非現実的で簡単な話題でしかない。そんなあまりにも醜悪な態度はもちろん、最後には画面外へ、床の上に消え去る。


本作には社会学の知らない「悪しき出会い」しかない。この三人の出会いにして常に不穏な影がある。デートクラブの社長(でんでん)の強引さに対して向けられる行き場のない「行きたくない」という明子の金切り声、亡霊のように銅像の前に孤独なまま立ち尽くすおばあちゃん、その周りを無情にも二度回る都会の夜の回転、果たされぬ出会い・・・そんな不機嫌で悲しい出来事の後に老人と明子の出会いは必然的にもたらされる。大学の試験にむかう明子を詰問したあとにイライラしたノリアキはと老人は、ノリアキが明子を送り届けた老人に煙草の火を借りることで出会う。結果論でなくともこの老人とノリアキとの出会いは「悪しき出会い」にしかならなかったはずだが、後ろ暗い明子のためにはここで嘘をつくか、逃げるか、どちらかしかなかっただろう。


老人の過去は厄介な隣人のおばさんによって明子と観客に暴露されるが、亡妻との出会いですべてが「ひっくり返った」こととその隣人が老人に恋慕を寄せていたことしか語られず、詳細はわからない。老人が今もその亡妻を愛していることだけはたしかである。老人と明子の物語は始まるのではなく、老人の中では終わりなき妻の物語に明子の登場により変化が加えられるだけの話だ。ノリアキの経歴――中卒、自動車整備工場の社長——は語られるが、明子との出会いはわからないままだ。本作で始まるのは老人と明子、ノリアキの関係であり、それは一応の終わりを見せる。


老人はノリアキと出会ってからうまく明子の祖父役をこなしているように見えた。何度も強情にうまくいくはずのない結婚を推すノリアキの感情を逆撫でせぬよう、老人はなだめすかし、自分はただ経験からくる「事実」を述べているだけであり結局一老人の「意見」でしかない、と謙虚に語るーー質問をしてたとえ嘘をつかれてもそれを信じることができる、そこに辿り着くまで結婚は早すぎる、今の君たちはまだ経験が浅いーー至極真っ当な「意見」であり、耳を傾ければ役に立つだろうが、感情的に物事に臨むノリアキに理解されるはずもなく、いずれそのときがくるだろうとばかりに老人は車を走らせる。他者の言葉を理解する、他者に自分の言葉を理解させることはそう簡単にはいかず、結局、こんな経験をしたことがなかった老学者は自分の言葉の罠に嵌ってしまう。


キアロスタミといえば前作「トスカーナの贋作」でも全編にわたってなされた長過ぎるほどの対話である。多くの人々に経験がありそうな事柄について登場人物たちは好き勝手にだらだらと話したて、自然に時に感情的に反応して喧嘩したり仲直りしたりする。人生はその繰り返し、という紋切り型が浮かんできそうだが、当事者たちにはそんな悠長な紋切り型は通用しない。ノリアキと明子の昼食での暴力沙汰は見せられず、明子の涙ながらの老人への電話と口元に刻まれた傷、そしてノリアキの度を過ぎた激高でしか知りようがない。その傷を目の当たりにした老人は事情を聞くより先に痛々しい姿となった明子の気をなだめようと、スープや牛乳やとのろのろと老人らしく立ち回り、やがてノリアキの恐ろしい怒声が響きわたる。時すでに遅し、老人はおろおろと何度もソファと玄関と窓を行ったり来たり、その間にもノリアキの怒りは膨らみ、衝撃音。

映画館の快適な椅子から身体があれほど浮き上がったのは、銃声以外ではおそらく初めてなんじゃないかと思うぐらいのびっくり。ああおっさん、覗くなってと思ってはいたが、まさかあそこまでの音が現れるとは・・・モンテ・ヘルマンの「果てなき路」の銃声、飛行機の墜落も相当にびっくりしたが・・・ゴダールの80年代から、というか音楽自体も「音響」いうものが重要視されはじめて、映画内の細かな音も慎重に選択され、配置されるようになった。ホセ・ルイス・ゲリンの「シルビアのいる街で」の街の物音と生活音のなかで生じる非日常的な物語のように普段隠れていて聴こえない日常的な物音の配置のなかに、このような日常的でありながら非日常的な断片が持ち込まれると退屈な日常の物語からは離れることができる。本作でも冒頭からカフェの会話やタクシー外の渋谷ー新宿の街のざわめき、外界から遮断された老人の部屋のジャズなどその空間を構成する物音が聴こえてきて、その中に引き込まれる。凡庸なポップソングを被せて観客の感情を煽るようなハリウッド映画の手法はすでに時代遅れとなっている。


そんな繊細な音のなかにあの衝撃的な破裂音が入ると・・・それはびっくりする。心臓が心配になる。予定調和といってしまえばそれまでだが、物語はたしかにまだ終わっていない。しかし、あの一投は再構築さえ拒否する暴力的な音を産み出した。だから映画はひとまずそこで終わる。


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