裏切りのサーカス / 裸のランチ

「ぼくのエリ」の監督トーマス・アルフレッドソンの第二作?前作のサスペンス要素が前面に出てきた。冒頭のブタペストのカフェのシーン、戦闘機の音、それに呼応して鳴るカップとテーブル、倒れる椅子、そして拳銃。アクションなしって言われてるけど、この拳銃の緊張は結構使ってる。街中であんなのぶっぱなすかね。まあ時代は冷戦期だからしょうがないのかもしれないが。

拳銃のショックで緊張感を出すのははっきり言ってせこい。観客に対する暴力とも言える。冒頭は汗ダラダラのカフェ店員が道に出てぶっぱなす見事なシーンだが、美女イリーナの虐殺はひどい。その酷さを演出したかったのですかね。

ロメール「三重スパイ」でスパイは完全に冷酷非道な人物にされていたが、本作ではノーマルもいればゲイもいる性愛に価値を置く人間が登場する。主人公スマイリーはノーマルだが妻に浮気され、逃げられている。ギラムはゲイ、ヘイドンはバイ、プリドーは?プリドーの最後の銃殺は信頼していた親友の裏切りによるものなのか、あの視線のからみ、気色悪い微笑からするとそれ以上に親密な関係があったからなのかなんて思ってしまうが。まあどっちでもいい。

相関図に親友とか恋仲とかいらない。そもそも前情報が要らない。ややこしいことはややこしいが見てればわかる。わからなければ駄作だ。

ゲイリー・オールドマンはノーマルで静かで優しそうでしたたかな老紳士スパイを好演。眼鏡ですね。あの目を見せない反射、あれは実際に劇中人物にも見えないようになってるのか、観客から隠しているだけなのか、とにかくよく反射する。ギラムは優秀な部下っぽいが意外と焦ってて面白い。ターはやんちゃで実直なスパイとは思えない、まあ捨て駒的存在でよかった。ギラムと再会するところのあのふてこさはなかなか。イリーナへの暴力なんかを見て、なぜこの下劣な世界にいたがるのか、それほどまでにスパイは魅力的なのか、と思ってしまった。誰も信頼できず、自分がもつ情報と知識で仕事を行なう。他人が知らないものを掴んでいる、その優越感か。そしてそれが世界を動かす、その巨大さか。資本主義でよく聴かれる一秒間でいくらの金が動いた、動かしたなんてやつと変わらない、くだらない欲望。大統領の次に戦争を望んでいる低劣な者ども。

人間味のある部分が命取りになりかけた主人公スマイリー、愛がスパイを辞めるきっかけになったター(スマイリーは虐殺されたことを教えてやらない)。などなど。ウィッチクラフトも冷戦自体もさして取り上げられず、各人のエピソードから謎解きする。「ロング・グッドバイ」の読後感に似ている。

紋切り型の人間が意外に多くて退屈だったが、ヘイドンの浮気の理由にはほっとしたし、イリーナは美しかった(脚を折り畳んだままカーテンに隠れていくとこ)、ギラムが泣くとこは突然の告白で面白い。破られたページをうつすカメラの美しさもよい。

まあでもやっぱりエンタメは辛いなあと思う。「三重スパイ」のようにスペクタクルを排除することも、「裸のランチ」のようにB級な幻覚化をすることもできない。まあおすぎが大満足すればいいんでしょうけど。

映画『裏切りのサーカス』公式サイト


デビッド・クローネンバーグ裸のランチ」はバロウズ原作の映画化。バロウズの他の著作も各所に散りばめている。虫、ゴキブリなんてのはできれば見たくないものだが気色の悪い登場動物はかなり笑える。セックスシーンには勃起したペニスを思わせるブツがニョロニョロと出てきたり、エイリアンのような仕事仲間と協力したり裏切ったり、殺したり。クローネンバーグはコメディだと言っていたが、たしかにその通りの映画になっている。スパイ映画というよりブラックコメディ映画。

バロウズの「ナイス」センテンスや印象に残る小話も引用されている。個人的にわけもわからず読んでいた部分があった原作で印象的だった数少ない話が引用されていて勝手に共感していた(しゃべる「肛門」をもった男が肛門に支配される話、ポボという少年の話)。

原作にはほとんどないに等しいプロットが映画にはある。ゴキブリ駆除薬をドラッグとして使い、幻覚を見始めた主人公のリーが女房のジョーンを「ウイリアム・テルごっこ」で誤って殺してしまう(これはバロウズが実際にやってしまったこととして有名な話)幻覚に誘われて逃げ出し、そこで報告書を書き、自分がスパイであることを告げられ、その気になり、黒幕の元へ行く。

友人が助けにくるシーンでモロッコのような都市インターゾーンが幻覚の産物であることがわかる。司令塔のタイプライターが敵のスパイのタイプライターを壊してしまうのだが、それは現実にはドラッグの空き瓶だったというくだり。ドラッグによる幻覚で書かれた原作そのままの世界であり、その中身が面白い。幻覚のゾーンから見た現実を敵のスパイが妻とヤッたリーに語る「文学的で複雑で神経症的だったろ?」。シンプルでよい。たしかにリーとその妻はタイプライターを打ちながらセックスへ流れていったから文学的であるし、その文章は複雑だった(気がする)が、ドラッグをやりながらだったためそれも幻覚の中に入る。幻覚はどうやら反文学的(?)で単純で分裂症的らしい。

性愛はノーマル、ゲイ、レズと区分けされており、リーはゲイを装っているだけで基本的に女としかやらない。紋切り型。原作にはほとんど女は出てこず、たまに出てきたと思っても悪口を言われている。そのかわりゲイはたくさん出てくる。この区分けは退屈だが、幻覚の中で性差が消えていく過程は興味深い。発見するのではなく、消えていく、排除していく。同性愛婚がアメリカで問題になっているが、どっかの議員が言っていたように本当にどうでもいい。無関心なのではない。制度で認めるか、認めないか、その設定が無意味なのだ。法は欠陥だらけであり、その元に社会があり、やはり不完全であることは自明である。そしてそこに住まう偏屈で退屈な人々はどうでもいいことばかりに首をつっこんでいる。ゲイかレズかノーマルかバイか、そんな区分けはまったく興味がない。誰もがそうなる可能性をもっているし、誰にでもそういう部分がある。ジャンル分けは楽しくて仕事も簡単になるのかもしれないが、そのジャンルに入ってしまえば抜け出すのは簡単ではない。ジャンル横断的な人間であるはずなのにそこが存外気持ちよくて居座ってしまう。性愛の区別が取りざたされるのはそれがセックスの問題だからなのだろう。生殖、エイズ、セックス。ここに関わる限り、そのジャンル分けは厳然として消えないのだろう。あってないようなものなのに。

リーは性愛を利用して殺してしまったジョーンを救うべくタイプライターの指示に従って暗躍する医者ベンウェイの居場所を突き止め、おぞましい実験場へ潜入し、ジョーンとベンウェイに再会する。ベンウェイの皮を引き裂いての登場は笑える。自分の名前を叫びながら得意顔で偽の仮面を剥ぐ。ベンウェイと取引をしてジョーンを引き取ったリーはアクネシアという場所へ向かう。幻覚からは抜け出せず、またウィリアム・テルごっこでジョーンを殺す。そう簡単には抜け出せない、という教訓的バッドエンド。

リーは図らずもスパイとして行動するようになるが、敵のスパイも幻覚の欲望に取り憑かれているから取引は簡単だ。お互いの背後に巨大組織の影もなく、ただ自分の目的を果たすためにスパイ活動をおこなう。

欲しいものを与えるだけで済む、幻覚の単純な世界。ドラッグで現実から逃げることはできるが、幻覚の世界でも絶えず欲望につきまとわれてしまい、結局抜け出せない。理想郷は見えても実現せず、逃げたかった当初の悪夢的現実が戻ってくる。形も構造も内容も感覚もすべてが変容しているのに。



裸のランチ (河出文庫)

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