「海炭市叙景」

音楽がジム・オルークだというので観た。日本映画は久々。

退屈な情景がだらだらと流されるようなものを想像していたが、海炭市に住まう人々の群像劇で大した交わりはないが、短編を繋ぎ合わせた話で退屈はしなかった。

リストラされた造船員とその妹/古びたプラネタリウムで毎日何度も同じつくりものの星を映写する技師と水商売をする妻と思春期の子ども/その地方のガス会社の社長と東京から送られてきた浄水器の営業マン、歪な社長の家族/猫やヤギと住まう、立ち退きを迫られるおばあさん。

疲弊した地方。そこから抜け出すことなど考えもせず、安定したささやかな日常を送りたいと願う人々。その願いは直接言葉にされることはなく、怒りによってぶつけられる。猫と暮らす、死を間近に控えたおばあさんだけが穏やかであり、立ち退きを迫られても動じない。しかし、いなくなった猫の名を呼び続けるシーンではおばあさんの孤独が浮き彫りになり、愚にもつかない同情が浮かんでくる。おばあさんはそんなものを必要としていないにもかかわらず。

プラネタリウムの技師(小林薫)とガス会社の社長(加瀬亮)は仕事に倦怠を感じ、家族に安らぎを求めるが与えられず、怒りをあらわにする。怒りは現実を不確かなものにし、怒りの感情は内面化されてモノが現実にぶつけられる。怒れる者に現実を改めて突きつけるのは偶然の事故である(技師には車の衝突、社長にはガス管の落下)。そこで忘れられていた疲労や他の感情が横溢し、考え、生活に戻る。退屈な繰り返しである日常は思考を鈍らせ、欲望を先行させてしまう。日常は二の次であり、欲望されるものが最優先されてうまくいかなくなる。外部からの干渉は欲望にとって煩わしいだけであって怒りを増長するものでしかない。日常に立ち戻らせるのが事故であるところに労働者の悲哀が見える。

造船員の兄妹は兄の死によって新たな生活がもたらされてしまう、最も悲劇的な話だ。妹は兄が死を選ぶことを知っていたが、止めることができなかった。罪の意識あるいは愛憎がこれから妹一人に負わされることになる。思考によってそれを克服できるとは思えない。悲劇の現場である海炭市で暮らしていくのが困難なものであることが、閉店間際の土産物屋で一人背を丸めて座っている妹の姿に映る。

浄水器の営業マンは仕事もできず、金もない、海炭市から上京し戻ってきた男であり、またこの街から抜け出す。ただ自分が生まれた場所のような扱いをするが、フェリーのデッキから海炭市を見つめる目、一度背を向け再び見返す目は郷愁を帯びている。しかし、男はそこから抜け出す。大した訳もなくその場所を憎悪するよりは郷愁をもって見つめるほうがよいのだろうか。

救いはなく、現状描写、問題提起に留まっているがそれはそうするほかないのだろう。思考すら止められてしまった者たちに外から何かを提示しても拒絶されるだけだ。安易なハッピーエンドはフィクションという枠組みのなかにすら入れてもらえない、何よりも愚かな嘘だ。

彼らの平凡なようで歪んだ日常は目を背けたくなるような代物だ。しかし、彼らの問題はすぐに私たちの問題にすり替わってしまう。その事実を恐れなければならない。彼らに同情していても彼らの状況は変わらないし、共感を示したところで拒否され、身勝手な怒りが顔を出す。日常の袋小路はいたるところにあってそれを破らなければならない。それは安易な共感や同情では不可能であり、透徹した思考と抜け出すという怒りが必要である。技師と社長には怒りだけがあった。愚かに見えるかもしれないが、そうするほかなかったのである。私たちは彼らと一緒に考えなければならない。

それぞれの話の終わりに海炭市の情景が映される。朝陽を浴びて黒光りする海、白い雪が積もる屋根、空き地につもる雪、さびれた街の灯りが照らす道、高くそびえる山々。自然とともにある、という言い方をよくされる地方都市であるがそこに住まう人々は自然と共生するというよりしょうがなくそこで暮らしている、消極性のほうが強いのではないか。たしかに美しい情景がすぐそばにあるが、造船員の兄が朝陽を見て死を選ぶように自然が生を力強いものへ変容させることはない。自然はそばにあっても人間の手の届かないものとなり、邪魔者扱いされている。人々は周りにある自然を受け入れることができない。自然はこのうえなく美しく、生を生たらしめてくれるものなのに。


ジム・オルークの音楽がその風景のシーンで流れてくる。ピアノとギターだけで風景とともに私たちのなかへ入ってくる。拒絶はなく寄り添い、包み込む。自然と音楽。安易な癒しを求めても即時的ですぐにまた新しいものを求める。思考を止めず、まわりにあるものを真摯に見つめ、音楽に耳を傾ける。


海炭市叙景 [DVD]

海炭市叙景 [DVD]