愛の誕生 / 孤高

フィリップ・ガレル

《ガレルが映画において説明していること、それは三つの身体、男と女と子供という問題である。<身振り>としての聖なる物語。》と、ドゥルーズ

『愛の誕生』においては俳優ポール(ルー・カステル)とその妻、そして息子、そしてもう一人の赤子。小説家マルキュス(ジャン=ピエール・レオ)とその妻ヘレーヌ。マルキュスが妻に「愛してるか」となんというか幼稚にも聞こえる言葉を真剣に言い、妻は笑ってごまかし、フレーム外へ。マルキュスは女の肩にわずかに触れるだけ。

ポールは妊娠した妻を差し置いて浮気、しかし帝王切開で出産。夜の闇から一気に神々しいまでの白に染まった妻は泣いている。その涙はのちも現れる。ポールが夜泣きする赤子に絶叫し、妻は凄まじいスピードで階段を駆け上がって泣く。息子を介して謝罪と愛の言葉を告げてももはや手遅れ。この二人は完全に冷えきっている、というかポールは自分のことしか考えていない。女の身振りも言葉も理解しようとしない男。

しかし別の女と愛の行為に耽ることはできる。「ベイビーみたいだな」と言いつつ、自分の膝に頭を置く女の髪を撫で、ヴァギナを舐め、後ろから抱いて眠る。それ以外のことができない。家族と浮気相手の狭間に置かれた朝、庭で木陰の黒い闇のなかへ後ろ向きに飛び込むのはどういうことか。ケツを隠したいのか、もう消えてなくなりたいのか。

マルキュスは女に去られ、スランプに陥る。その後、ポールの運転する車のなかで語り始める。旅は何も与えない。ボードレールの《世界人》。それでもすでに車は動いていて、マルキュスは女に会いにいき、大聖堂に入り、暗闇から戻ってくる。

家族をもってしまった男と、家族になる前に別れた男。どちらも同じような影。

 

1974年の『孤高』ではジーン・セバーグの顔。無音なのは顔にフォーカスをあてるため、物語の要素をなくすためだろうが、無音というのは記憶でも夢でもありえず、動く写真のようなもの。音がない記憶や夢が純粋であるかというと別にそうではないし、声やその後ろにある物音はノイズではないはずだが、無音にしてある。それで《孤高》? フィリップ・ガレルの安易さ。

シネフィル、映画原理主義者たちしか見ない。白黒、35ミリのフィルムで、とそのメディウムに固執し、それが映画だ、という安直な断定。フィリップ・ガレルの敬愛するゴダールはフィルム、ビデオカメラ、はてはアイフォーンの動画、YouTubeの動画、デジタル、3Dと多様なメディウムを駆使するのに、2000年代でも白黒フィルムで1960年代みたいな映画を撮り、それが称揚される。原理主義というのはどの世界でも常に見苦しい。固執し、それへの愛を声高に語り、それ以外を排除する。大義名分の下で。

ジーン・セバーグイデオロギーに絡めとられ、死んでいった。心理主義的なアプローチをとるアクターズ・スタジオ出身らしく、そんな演技も散見される。なんというか、フィリップ・ガレルがカメラを構えている以上、どこでも自然さというものはなく、何かしら演じている。ニコを放っておいてこちらに入り浸っていたらしいが、生活感のようなものはまったくなく、《撮影》が行われている。

ジーン・セバーグは美しいし、あと一人の腫れぼったいまぶたの女もいい。しかしこれは「映画」であるから、彼女たちは演じている。メカスのような日記映画ではないし、ホームムービーでもない。撮りたかったから撮った、好きだから、美しいから。

ベランダか開けた白い背景をもってこちらを見ているジーン・セバーグ。しかし、彼女がバッと振り向いたとたんにそこがファッションモデル撮影のシーンみたいになってしまう。

プロフィールは不変。

 

上の二作も同様、2005年の《恋人たちの失われた革命》も白黒の35ミリフィルムで撮っている。フィルム、ビデオ、デジタル、はてはYoutubeの動画や3Dにまで映画のメディウムを広げているゴダールを敬愛している割に、メディウムは古典的で、内容も家族、恋愛と古典的。フィルムこそが映画、白黒こそ光をとらえる、という時代錯誤なシネフィル的固執か、あるいは、そうすることでしか映画がつくれないのか。それ自体は悪くないが、それが映画だ、他は映画ではないという排除が働いているとなると、昔習った定義を援用し、それを疑うことなく信仰するただの原理主義で、醜悪でしかない。善かれ悪しかれメディウムは時代とともに変化していく。フィルム、ビデオ、デジタル、3D、サイレント、トーキー、手書きワープロ。古典はメディウムとともにあり、たとえそれが時代遅れであっても輝きを失わない。それをそのまま引き継いでもしかたがない。映画をメディウムに縛りつけることはやめたほうがいい。

 

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