2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

音楽の聴き方(アナと雪の女王 / キース・ジャレット / インサイド・ルーウィン・デイヴィス)

成功者のお話から自らの境遇にトレースして憂鬱な毎日に少しでも希望を持つことは悪くないが、それは一般的に搾取と呼ばれている。しかしもちろん宣伝文句には《搾取》とは書かれず、希望、泣ける、スカッとする云々と+とされる言葉が並ぶ。

 

アナと雪の女王』はディズニーだからもちろんそういう戦略でつくられ、そういう言葉を観客に与えて、果てはエンディングテーマをみんなでいっしょに歌って気持ちよくなるというイギリスのロックバンドのコンサートみたいな状況まで作り出すことに成功したらしい。隣で大声で歌っている客がうるさいと文句を言った人がいたらしいが、そこはそういう場所なのだから文句を言ってもしかたがない。

 

キース・ジャレットのコンサートは咳もくしゃみもなく静かに大人しくしていろと言われているらしく、その場で放たれたことか、拍手のタイミングが早かったせいか、まあとにかく観客の態度に腹を立ててキース・ジャレットは帰ってしまったらしい。高いチケット代の元をとらせなかったキース・ジャレットに文句を言う人、果てはキース・ジャレットの音楽性にまで文句を言う人がいたらしいが、キース・ジャレットは自分のうめき声以外の他人の身体から出る音(咳、くしゃみ)のない静寂のなかでしかコンサートなんかしない、と決めているのだから仕方がない。ジョン・ケージの対極にある姿勢は音楽に関係しているのであってキース・ジャレット自身には関係がなく、音楽性を批判するのは間違っていないが、この騒がしい現代にあってそんな音楽が聴けるはずがないのだから家で黙ってCDを聴いていればいいんじゃないか。キース・ジャレットライブコンサートはもはや存在しない。

 

そうしてみるとオアシスやらブラーやらフーやらのライブでアンセムをみんなで大声で歌うような場所はピースフルで気持ちいい汗がかけて良さそうに思われてくる。《みんなで歌う》はウィアーザワールドで顕著にあらわれているように、平和の象徴なのだろう。しかし、そこでも中心たるアーティストの歌を聴きたいと思っている人もいるだろう。日本人はそこまでないが鬱屈したイギリス人や陽気なアメリカ人はすぐに歌いたがる。聴きたくても聴こえない、隣の図体のでかい男の野太い声しか聴こえないなんて状況は聴きたがる人にとっては耐え難く、楽しもうとするなら自分も歌うしかない。そういうライブに行くならメロディや展開はもちろん歌詞も覚えていかないといけない。わたしはなぜこのライブに来たのだろう? そんな疑問が人気のないトイレに落書きしてあるかもしれない。

 

しかしながら歌というものは労働歌はじめ差別的な収容所でも牢獄でもみなで歌われ、力を与え、耐えがたい現実を乗り越えるのに欠かせないものとなるし、フィールド・ハラーのように一人で街頭に突っ立って誰かに向けて歌い、呪い、伝えるという側面ももつ。

 

最初から落ちぶれているルーウィン・デイヴィスはみなが落ち着いて見守る中、歌う。なぜここに妊娠させてしまったキャリー・マリガンやらジャスティン・ティンバーレイクがいないのかよくわからないが、一人にしたかったのだろう。相方に自殺されて一人になった男。

一人で歌っても「金にならない」と言われ、若手に追い抜かれ、一晩寝た女からは罵倒され、かなり独特な二人と静かで騒がしい旅をして失敗し、疲れ切って、働こうにも働けず、歌う。映画のなかでその歌は素晴らしいが、ジャスティン・ティンバーレイクの軽妙でおもしろい歌のほうが売れる。主演のオスカー・アイザックの疲れ切って死んだ目と歌う時の必死さのコントラストがとてもよい。

 

音楽への強い執着は教授夫妻とその友人たちとの会食の席で歌えと言われて、歌わされるところで出る。タダで泊めてもらったのだからまあ仕方ない。しかし、太った奥様にコーラスをつけられてぶち切れる。もしこれが若く美しい娘が肩に手を置きながら、だったらディズニー映画のように涙を流して感動するのかもしれないが、もちろんそうはならず、自殺した相方への執着とともに怒りをぶちまける。男は音楽と相方のワンセットから抜け出せない。その抜け出しが、冒頭にはなくラストで見せられた Farewell と一人で歌うところで果たされたのか。

コーエン兄弟ボブ・ディランではなく、そのボブ・ディランが心密かに憧れていた貧乏暮らしの男を中心に据えて、その映画のなかだけスポットライトを浴びせた。音楽も時代の流れに左右され、売れる音楽と売れない音楽へ別れていく。しかし売れなくてもサウンドクラウドやユーチューブやバンドキャンプなんかで音楽を聴いてもらうプラットフォームは広がり、決して路上で歌わず「安売り」しなかったルーウィン・デイヴィスのように意地を張らなければ聴いてもらうことはできる。

 

しかしカントリーを聞く姿勢ってあんなに静かなものなのか。踊りは皆無。みな椅子に座って黙って聴いていて野次ろうものなら「しっ」とされる。あの「しっ」の同調圧力が恐ろしい。フェリーニの『ローマ』でもボードヴィルで野次っていたおっさんたちがパフォーマーや他の聴衆に野次りかえされていたが、そちらはまだ微笑ましく、こちらの沈黙を強要する「しっ」のほうが恐ろしい。静かに聴きたいというのはわかるけども。