2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

ジャン=リュック・ゴダール 「ありきたりの映画」

オーディトリアムで特集されているゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団の作品。

1968年「ありきたりの映画」はフランスの五月革命を当時の映像と団地の空き地の草むらで5人の男と1人の女が議論する映像、それだけ。基本的に6人の議論ではカメラは固定され、長回しで延々とおしゃべりが続く。しゃべる人物の顔が映されないため、誰が話しているのかよくわからないうえに突然心の中の声、オフの声が入ってきて五月革命の白黒の映像に切り替わる。そこではおそらく学生の男女二人が交互に回想して言葉を繋ぐ。

寄りで6人の声が同時に入り乱れるとたとえ何かが話されていても散漫になり、入って来ない。これはそのままデモやより大人数の議論の場ではごく当然のことなのだが、たった6人であってもそうなってしまう。それは映画であるから、なのかもしれない。顔は見れないし次のカットも予想できずただ受け身で見聞きするだけ。本作のなかでも映画と観客について述べられている。

おしゃべりの内容はとりとめがなく次から次へと問題は噴出し、解決などまったく望めそうにない。何度も出てくるのが、学生は学生時代にはデモやストに参加して反抗的な行動をとるが、卒業すれば結局労働者のことは忘れて管理職につく、という言葉だ。労働者はここではプロレタリアートのことでありホワイトカラーは除外されているようだ。この状況は現代の日本ではデモやストなどに参加する者はいなくなり、ホワイトカラーになるためにボランティアに精をだすといったところであり、おじさんたちが60年代に思いを馳せてしまうのも無理はないように思えてしまう。学生二人は何度も管理職につくことを否定するが、他の多くの学生がそうなってしまうのは避け難い。学生、という括りに無理があるように思える。80年代あたりから日本の王道となった有名国公立大学から大企業、終身雇用といったレールはいまだ根強く、就活生たちは大して思い入れもない企業に入りたがり、入れた者はとりあえずそこで働き、入れなかったものは浪人するか中小企業に入る。大学は就職のための機械であり、そこから外れる者はマイノリティとなる。68年のパリではその少数派が多数派であった。その当時の彼らは今、どうしているのか。頭に残っているのは中心の三人ではない一人のサラリーマンの話で余暇が問題とされていた話だ。なぜテレビを見るのかーー退屈だから。他にすることはないのかーーある。しかし子どもがいては外にも出れない。「文化の家」があれば行くか?ーーー行くだろう。しかし、どんな映画を流せばいい?まあそれは置いといて、結局お前は労働しかすることがないんだ・・・という何とも厳しい結論で終わる。一時期、脱サラという言葉が流行ったが結婚して子どもができてしまえばなかなかそういうわけにはいかない。ブルーカラーや中小企業であれば尚更である。いまはそんなことしか浮かんで来ない・・・

五月革命の映像に印象深いものがいくつかあった。しかし、書く程のことではない。


逆襲のジガ・ヴェルトフ集団+JLG | オーディトリウム渋谷

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