ブレッソン『白夜』ストローブ=ユイレ『オトン』

ユーロスペースで。『白夜』

ドストエフスキーブレッソン、変な組み合わせだと思う。しゃべりすぎる人物はフラッシュバックのおかげで寡黙になり、より自由な変態になった。草原で前転しパパパと口ずさんだり、バスの車内で『マルト、マルト」と呟くテープを再生したり、移り気なストーカーになったり、微笑ましい。そんなジャックの目が赤く染まる瞬間(これ意図してたのか?)、二人は出会い、留まる。

冒頭のピンをずらした赤、青、黄、緑と色とりどりの夜の光をうつしだし、そこにギターのカッティングが入る。美しい、ロマンを見せる気満々だが、不覚にも感動した。『ミッドナイト・イン・パリ』のラストでもこのような光があったが、そこに蠢く影はなく前景と背景の距離が存在していた。ブレッソンにはその距離はなく、すべてがぼやけて形をもたず、あるのは色と闇だけである。幻想はなく現実、かつての自分(人生)と録音されて繰り返される言葉しかない。

ネオリアリズモのあとブレッソンはそこに美しいカメラ移動を挿入する。マルト演じるイザベル・ヴェンガルテン。『ことの次第』で美しい裸体を見せたヴェンガルテンがここでも魅せてくれる。足元、腰、ひねられた顔。鏡のまえに立つマルトにひねりが加わるとネグリジェが自然に身体にそって落ち、滑らかな皮膚が表出する。偉大な瞬間。その肌に顔を埋めた眼鏡男が愛される者となり、ジャックはその男の後に立つ。

ジャックとマルトは月明かりが照らすポンヌフの橋の上でお互いのこれまでの歩みを語り合う。リンクレイターの『ビフォア・サンライズ』は「白夜」からですね。夜な夜な男女が語り合うというのはロマンには欠かせない設定のようだ。ジャックは普通なら一緒に寝るところを律儀に送り返し、苦悶こそ見せないが、愛の言葉を録音する。テープレコーダーはドストエフスキーにおけるジャックのくどくどしい心情描写の代わり以上のものとなり、いたるところに顔を出し、果ては鳩のクゥーククゥークまでおさめて、幸せを予感させる。

控えめで優しいジャックに甘えたマルトは「あなたはわたしに恋してないからイイ人」なんてことを平気で言う。ジャックは持続する愛の最終到達点であるはずの「友情」をとり、愛を抑えるが、恋人がこないことで感情的になったマルトが川のほとりで愛を語りだしちゃうもんだから、ジャックもそれに乗じて告白する。「甘い調べ」が川のうえをいく観覧船から聞こえてくる。ボサノバ(ブラジル人ライフ・アクアティック?)。激甘だった。二人は川のほとりのデュオ、街頭のギター弾きの前でも立ち止まり、音楽を聞くが、不意にその音楽は遠いものとなる。が、ジャックは幸せだった。

抱けばよかったのに。妄言を繰り出してばかりいるジャックは身体を知らなかった。手は固く繋がれてもすぐに解ける。手と手が繋がれる、それは奇蹟だ、とゴダールは言っていたが、恋愛においてはそうであるとは限らない。そこにはあまりにも多くの思惑がありすぎる。

ブレッソンの身振り。「どこに行く?」と聞かれても手を大きく広げ天に突き出す奇怪さ、笑顔のない前転、全裸で静止したまま抱き合う二人、首をもって慰める、膝に置かれた手に手が交わる。自然な仕草など映画には必要ない。登場人物の動きがあるだけだ。しかし、表現があるはずでは?たしかに二人は「演じている」がぎこちなく、下手と言われかねない。が、それは表現として提示されているのではなく動きとして、読まれるべき動きとして存在している。ストローブ=ユイレの『オトン』ではフランス語をうまく話すことのできない素人が起用され、棒読みでありえない速さで台詞を言う。視線はカンペにいったり、カメラにいったりで安定しない。『オトン』ではその棒読みと固定映像で、観客は読みを迫られる。棒読みのせいで会話はすぐに終わり、カットが突然変わってしまい、ちょっとウトウトなんてしてたらすぐに読めなくなる。短文だとかなりテンポが速くなり、ただただ女の怒りにひれ伏し、苦笑するといった次第。『白夜』では現在の語りというより過去の語りが、それも語りではなく映像として提示させられるため、まだ映像が上位にある気がする。音声は『オトン』ほど棒読みではないし、マルトもジャックも愛の語りで感情を見せる。愛を語りがちだったマルトの変わり身の速さは奇跡的だが、「今夜が最後」という言葉もあったし原作もそうであったし、友情がある、はずだ。物悲しい笑い。もちろんジャックは笑わない。一回も笑わなかった。マルトはときどき微笑んでいた。