ハル・ハートリー『シンプルメン』 / スパイク・ジョーンズ『her』

オルタナ。ヨ・ラ・テンゴとソニック・ユース

ハル・ハートリー。ニューヨークのアングラではなくインディ。

ウィキによると淀川じいさんが「勝手にしやがれ」に比して絶賛しているとのことだが…

「女は女である」「はなればなれに」のダンスは堕落したゆらゆらではなく、リズムをとって美しい動きを取り入れ、心も躍る。

今作の華、Kool Thing のダンスはたとえようのないダサさを讃える。完全に音に合わせて単調な動きを合わせる、ヘタウマにも達しないダサさ。踊っているおかっぱの女優が舞台出身らしく、アフリカンダンスを取り入れたらしいが、これのどこがアフリカなのだろうか。まだ首を縦に降って飛び跳ねていたほうがいい。ソニック・ユースは悪くないが、この映画には合っていない。

各登場人物が目指す父親はただのアナーキー親父で、笑えない。

会話文がもう簡単にアメリカ的と言ってしまいたいぐらいの欲望、恋愛、トラブル、安易さに満ちていて辟易する。そういうのは歌詞にしてアメリカのポップソングにのせるかラップしたほうがいい。そのへんジャームッシュはすごいのか。

スパイク・ジョーンズの「her」もそうだが、物語の筋に合わせて単純な言葉で何か重大なことを言っているような(英米の得意技)台詞を並べてもその浅薄さに辟易させられ、退屈を助長する。まだ無意味な叫びのほうがまし。のっぺり既視感のあるスカスカのきれいな映像に単純な言葉。そんなところにきれいなシャツを着たホアキン・フェニックスがいるのを観るのは苦行。

「シンプルメン」。シンプルな男たちが恋に破れ、恋して。そんな凡作で一番いい味だしていて演技がうまくいっているのはフランス語を勉強しているガソリンスタンドの店員。ヨ・ラ・テンゴっぽい脱力。Kool Thing で「女の惑星」という部分があるが、それは目指されていないようで、赤い口紅のアメリカンモガの女と田舎のすれたケツ顎のおばさんが出てくるだけ。あくまでシンプルメンが中心。

オルタナ………

 

Goo

I Can Hear the Heart Beating As One

はなればなれに Blu-ray

ワン・ビン『収容病棟』

瘋愛。'Til Madness do us part。

行き場のない収容者たちのそれでもまだつづく物語。

どこに行っても物語はつづく。

その場所、時、理由といった説明は物語を見るうえで必要な要素ではなく、邪推を引き起こす。収容所を映すカメラが暗転して最後に与えられる。

激昂による家庭内暴力で収容され妻と息子に見舞いにこられる者

下の階にいる女と互いの顔が見えるコーナーで愛をささやきあう者

運動不足解消のためか収容所の廊下を何周も走り回る者

絶妙なポジションを探すべく何度も似た動きを繰り返す者

祈りを捧げる者

冷水のバケツシャワーを浴び、歩き回り、友人のベッドに入り込む者

あたたかみを求めて同じベッドで眠る者

いなくなった友人を惜しんで泣く者

二本の煙草を満足げな顔で吸いきる者

見舞いにきた娘と話し、涙を流す者

帰宅し、寡黙なまま家を出、道を歩き続ける者

社会から爪弾かれ、収容所、隔離病棟、精神病院、いろいろな名前をつけられそうな閉鎖病棟のなかへ閉じ込められた彼らには、しかしながら家に帰ることができる可能性は残されており、社会と荒野の真ん中にいる。

各人に名前もしくは呼び名が与えられ、それは死んでからもつづく。観客は各人の飲食、排泄、睡眠を見ることになる。ある対話の中ではここに入れられたことを冷静に現実を見つめる目があり、こんなところにいれば誰だっておかしくなる、無責任な奴らが無責任におれらをぶちこんだ、と言う。トイレは存在するが使うものは少なく、ベッド下に置かれた洗面器や廊下に小便を落とす者が多く、「責任能力」といった社会的な用語が浮かんでくる。排泄する場所をわきまえ、その場所で排泄することができるか否か。社会から責任能力なし、暴行者、思想犯、過度の信仰をもつ者、狂人の烙印を押された者たちがごたまぜに閉鎖空間のなかへ収容され、まともに社会復帰できるのか。そもそも社会復帰を目的としたものではなく、収容が目的となった場所で。

一人、帰宅を許された寡黙な男が母に連れられて家に帰るところで一気に画面が拓ける。閉鎖病棟から外へ出ただけで緊張が薄まり、眠くなる。男は黙したまま家で過ごし、旅行ガイド(地図)を読み、テレビを一瞥し、外へ出、荒野を歩き続ける。悪夢のような閉鎖病棟からようやく外に出られたのにまた空虚な家のなかに閉じ込められてはかなわない。外の奴らは無責任にも、10日間様子見してまた病棟に戻すかどうか決める、なんかやらかしたらまた病棟に戻すよ! なんて言っていることだし。画面の右寄りで男が先へ歩みを進める。一定のリズムでそこそこの速さで、カットが繋がれ、あるいは目が覚めて、いつのまにか夜。カメラが止まり、男は歩きつづける、それだけの映像がなぜか残る。昨日、観た「キャンディ・マウンテン」の適度にカットが切り替わり、移動はほとんど車だったロードムービーにはなく「ニーチェの馬」で家を出て井戸まで向うじいさんの足取りにあるようなもの。車で移動するよりも歩く移動で、距離は稼げないが一歩一歩の身体感覚で得られる距離感、徐々に過ぎていく時間。

時間の進み方は外と明らかに異なっている。その場所にはその場所の時間の流れ方があり、それは個人差こそあれ、時計、タイムキーパー、スケジュールによって決められ、それに沿った行動が求められる。大半は自由な時間を過ごせる収容者は自らのやるべきことを知っているのか、壁に小便を這わせ、それをタオルで拭い、そのタオルを枕元に置いて眠ろうとする。いつもは元気に動き、笑っているその男がベッドの下で両足を投げ出して何か嫌なことを思い出しているような緊張した顔で座っている。まわりの者がどうした、注射のせいか、と聴き、別の者がいや、昨日か一昨日か誰かに殴られたからだろう、と答える。それではこの男はそれからずっとこうして、座り、立ち上がり、膝を曲げ、靴を触り、また同じ場所に尻を下ろす行為をつづけているのだろうか。それとも今、殴られたことを思い出しているのだろうか。夜になり、彼はベッドの中央に腰掛け、両足を投げ出し、右に横になり、再び上半身を起こし、左に横になり、適当な位置を見つけようと何度もその行為を繰り返す。彼はなにかを探している。

ぼくは恋がしたい。君は恋がしたい。彼も右に同じ。わたしたちは、君たちは、彼らもやっぱり恋に落ちたい。(ヴィアン「うたかたの日々」) 

 そういう人間もいる。肉のあたたかみを求めて、麗しき過去の感触を思い返すべく、男2人で抱き合う者もいる。何年間話しつづけてきたのかわからないが、3階の男と2階の女が抱きしめたい、と言い合い、女が階段を登って柵の前に立ち、男はその女を抱きしめて本当に嬉しそうに笑う。

広がる空間を狭めるのは人間、閉鎖された空間で人と人を引き離すのも人間、自然が人間を引き離すのではなく、人間が人間を引き離す。はなればなれに。

閉鎖された空間、変わりのない空間のなかで人々はそれぞれのやり方でどんどんと内側にこもっていく。外がなければ内へ。それは自然な出来事であり、行き過ぎると周りとの境界が見えなくなる。その境界を保つのが他者との接触であり、会話であって、彼らの多くが他者と接触を持つ。ごく自然に、あっけらかんと、楽しそうに触れ合う二人はそうやって自らの境界を広げていく。一方、他者を見つめはするが、話さず、床にへたりこんでいる頬のこけた眼光鋭い男は最後、一人ベッドのなかでようやく微笑らしきものを見せる。二本の煙草を持ち、こっそりと吸い、もう根元まできているのにまだ吸い、名残惜しそうに吸いきる。《3(5?)分間の一服》、ブレヒト「ファッツァー」ではそこで風景が開け、思考が進むが、ここではただ安楽のための一服。煙草の存在理由。

 

見捨てられ、閉じ込められた周縁の人々の一人一人を掬い上げる、それは「三姉妹」でもそうだし、「無言歌」でもそうだし、ドキュメンタリーであっても劇映画であってもワン・ビンは常にその姿勢を崩さない。そしてそれを収容されている彼らが求めてはいないにせよ、それを観る誰かは求め、記憶し、忘れない。

 

映画『収容病棟』予告編 - YouTube

 

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

 

 

ロバート・フランク『キャンディ・マウンテン』

1987年にビート?

ロバート・フランクが63歳のとき。ジョー・ストラマーアート・リンゼイが主人公のギターを強奪するところは微笑ましい。

トム・ウェイツはブラジルカラー。緑のカラー、黄色のポロ、青いチノを着てお庭でパター練習。歌う。

車がやたらと変わる。車がないとアメリカ人じゃない。生きていけない。大泉洋の若いときみたいなへたれな主人公が《きっかけ》として伝説のギター職人を見つけ出してギターつくってもらって一攫千金、旅に出たのはいいが、ガソリンスタンドで早速彼女に逃げられ、乗せてくれた前歯のないおっさんは金をせびる、トム・ウェイツは金持ちのくせにサンダーバードを主人公の持ち金の半分で売る。

ようやくその伝説のエルモアの家に辿り着いたと思ったらココ・ヤマザキ? 小生意気な小金持のお高く止まった日本人女は主人公が顔を歪めるように、かなりうっとおしい。

まさかのビュル・オジェ。こちらも拙い英語だが、いつのまにか裸になっている。正気を保つためのセックス。あたたかみ。

もう仕事は終わったとばかりに嬉々とした笑みを見せる主人公に対してエルモア《自由と路上は別だよ》と言う。どうしてそんなことを言ったのかさっぱり覚えていないが、老年の実感で、これは路上と自由のどちらがいいのか言いたいのではないだろう。エルモアは実際に少なからず金をもち、女のいるところを転々とし、路上にいたのだが、自由はなかった。短絡的なビートと酒とセックスとそれなりの金が自由かというとそうではなく、自由を求めるならそこじゃない。主人公はギターと金ときっかけを求めていたが、短絡の産物であり、その先がない。

欲望の浅ましさ。トレーラーハウスにいた三人家族のヒステリックな母親の滑稽さ。あそこまでくるといったい何を欲望しているのかすらわからず、興味深いが金であっさり解決するだろう。

結局、エルモアは『現金に手を出すな』のマックス(ジャン・ギャバン)のように《これで終わりにしよう》としてココにすべてのギターを手渡し、それ以外のギターは廃棄し、主人公には何も残らず、漏電。

暗い坂道を早足で下りながらハーモニカ、火のついたギターが海へ投げられる、キラキラネオンのギターを楽しげに弾く、といった一連の動きが何の感傷もなく大げさでもなく、乾いた連鎖を見せる。

一応ちゃんとした物語があって、始まりと終わりがあるロードムービーというジャンル。ロバート・フランクは物語を語る。目的、意味から逃れられない路の上で。

 

オン・ザ・ロード (河出文庫)

オン・ザ・ロード (河出文庫)

 

 

熊切和嘉『私の男』

海炭市叙景」で地方の湿っているのか乾いているのかよくわからない空気を撮り、「夏の終り」の冒頭10分で満島ひかりの可愛さを掬いとった熊切和嘉。

まさかの錦糸町、楽天地シネマが満員になったのは賞のせいだろうが、よかったよかった。

タブー視、禁忌を強調するのは外だけで、スクリーンに流氷がこれでもかと広がり、まっとうな、どこまでもエロい、終わらない二人が見られる素晴らしき「私の男

おれの子、好きだった女の子ども、家族の一員、愛する女

流氷、寒さ、海の上で揺れる船、平屋、ゴミ屋敷、金魚、眼鏡、タクシー、東京

ジム・オルークのこすり小刻みの高音が流氷のぶつかり合いになり、その目前で花(二階堂ふみ)が笑顔で平泳ぎするように両腕を交差させ、開く動作を繰り返す。そこで花の問い《超可愛いでしょ?》。これは強烈だった。超可愛いというより美しいのだが、その問いのまえでは《超可愛い》としか言えない。音楽も素晴らしい。このシーンだけで見る価値があった。

耳につけて相手に発見されるよりも、問いのワンクッションを置いて口を開き、晒すほうが効果的だと知っている女学生は眼鏡を外して後ろから胸を揉まれ、キスをされ、交わり、血を流す。本当の父の血か、男の血か、そんなことはどうでもよく、本当の父のように交わることがこの二人には至極まっとうな道のように見えるのだろう。

のちにそれは間違いだったとわかり、それでも「私の全部だ」と宣言したように、諦めをこめた伏し目で語り、相変わらず薄く繊細な皮膜、外と内を分つ一部を外してもらうような仲。

形式上、父と娘であり、その二人が性交をするというタブーを犯しており、外から邪魔が入る。一般的に間違っている、常軌を逸している、生理的に受け入れらない関係だからといって外から介入しても幸せな結末などありえない。「お前には無理だよ」という言葉どおり、二人のあいだにしかないもの、理解しえないものが存在する。そこにこそタブー、触れてはならないもの、禁忌が設けられてもよさそうだが、二人は常に外の視線に曝される。外から遮断されているはずの家でさえ。

外からの安易で、軽率な介入はバス会社のすれきったおばさんが「年頃の女の子は潔癖だから気をつけなさい」と言うように、まったく二人のことを知らなくても行なわれる。「存在の耐えられない軽さ」のトマーシュが浮気先で髪を洗うのを忘れていたことを詰られるようなことはないが、たとえ自分の中から発する匂いでなくとも性交でついた匂いには気づきにくいものなのだろうか。指だったらすぐに気づきそうではあるが。

その指の匂いは性交の痕跡として残され、淳吾は花を送ってきた高良健吾の指を舐めて確認する。花は寝ていたが、起きていても止めることはなかったかもしれない。

殺人がどういった影響を与えたのか具体的には明示されず、痕跡として散乱するショートホープ、家の外まで出たゴミ、汚い身なりなどが示される。ショートホープはちょっとこれ見よがしだった。

恋愛ものとなると終盤の沈み具合、静けさがなんとも面白くなく、そこでお涙頂戴がはいると身の毛がよだつのだが、今作では別の男と花が結婚するというのに寂しさ哀しさセンチメンタルはなく「お前には無理だよ」という捨て台詞が花の足スリスリとともに輝き、決して終わらない。

 

私の男 (文春文庫)

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海炭市叙景 [DVD]

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夏の終り [DVD]

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地点『桜の園』

チェーホフ四大戯曲の一つ「桜の園」の再演。

登場人物はラネーフスカヤ(安部聡子)、アーニャ(河野早紀)、ワーリャ(窪田史恵)、ガーエフ(石田大)、ロパーヒン(小林洋平)、トロフィーモフ(ペーチャ - 小河原康二)。神西清訳の人物紹介の最初から六人が選択された。小間使いのドゥニーシャや《二十二の不幸せ》のエピホードフはいない。

開演前からロパーヒンとトロフィーモフは舞台に上がり、ロパーヒンは一円玉で囲われた桜の園の縁をぐるぐると歩きまわり、トロフィーモフは椅子に座って本を読んでいる。そこにラネーフスカヤ、アーニャ、ワーリャ、ガーエフの四人が不気味な卑しい笑い方で登場し、中央の積み上げられたフレームの残骸の上に陣取る。四人にはそのフレーム、写真や絵画、画面の典型であり、時間の経過したもの、過去を想起させる四角い枠が宛てがわれる。まだ若く、桜の園に未練のないアーニャは枠外の上から支えもち、その枠内にはラネーフスカヤ、ワーリャ、ガーエフの三人が入り、ワーリャが時折ロパーヒンの元へ歩いていく動作以外は動き回らず、その場でしゃべりつづける。「かもめ」よりは明るく「ファッツァー」よりは暗い照明は枠内の三人を照らす。

まず目につくのはラネーフスカヤの《崩壊》した様、その痛々しさ。躁鬱。躁のときは裸足の足を廃材に打ちつけながら声音高くしゃべり、鬱のときは庭に死んだ母の亡霊を見、死んだ息子のことを思い出す。生まれたときからの長く美しい過去は金遣いの荒いどうしようもない男に嫁いで金をなくして息子のグリーシャが川で溺れ死に、どうしようもない男に捨てられ、文字通り《崩壊》の一途を辿り、美しい過去の象徴であった桜の園までが差し押さえられようとしている、というのに、ロパーヒンの現実的な提案(別荘地として貸し出せ)もろくに聞かず、しがみつく。劇中、何度か口にされる《わたしの胸や肩に下がる重石》は息子の死から現在までの悲劇をさすのだろうが、美しい庭とともにあった《清らかな時代》もまた《重石》となっている。ウディ・アレンの「ブルージャスミン」の奥さんと同じく金がなくなっても金持ち生活が抜けずに麗しき過去を夢見る… 脇汗化粧だらだらのジャスミンと違ってラネーフスカヤに俗悪さ醜悪さがないのはそこ、現在にエゴが見えずもぬけの殻になっているように見えるからか。

そして最もコミカル、滑稽なガーエフ。おしゃべりで一席ぶちたがるガーエフは競売に出される桜の園を守る金を得られるだろうといいかげんな嘘をつく。周りから、しゃべりだすと無駄なことばかり、黙ってろと言われれば自分の悪癖を認め、おしゃべりを止めて大好きなビリヤードのことを考え「黄玉は隅へ、空クッションで真ん中へ」「トゥークッションで真ん中へ」と空想ゲームをして気を休めるが、悪癖は治らず。

ラネーフスカヤと近しい空疎な目でまわりを眺めるワーニャは自我、個といったものがなさそうな態度、話をし、結婚が噂されるロパーヒンともろくに話をしない。ワーニャがロパーヒンと結婚をすれば金にも困らず、桜の園も自らのものとなるのに、ラネーフスカヤ、ガーエフとともに現実には動こうとしない。

思考を行なう《万年大学生》と揶揄されるペーチャは立ち上がり、梯子に足をかけ、本を読みながら時折顔を上げて声を上げる。農家出身で親父に叩かれつづけてきたロパーヒンとペーチャは身の上のうえで対極にある。ペーチャはインテリを批判し、労働者の酷い労働環境を嘆く。そして考え方を同じくし《恋愛を超越している》間柄であるアーニャと前進することを叫ぶ。

ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は広大で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ(略)ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱をかこったり、ウォッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、ーーそれは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。

とアーニャに語り、幸福の予感を伝えるが、舞台では二人の距離は始まりから終わりまでいっこうに変化せず、恋仲にあることさえ意識されず、ペーチャの語りかけは《オーバーシューズがない》という叫びで終わる。

ペーチャと思想的に対極にあるラネーフスカヤとワーリャは言い争いをし、ペーチャは《いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです》と言い、ラネーフスカヤがからくり人形のように早口で反駁し、読書漬けの大学生風情を批判し、恋愛談義となり、今もまた帰ってきてくれとすがるフランスの夫を愛していると言うラネーフスカヤにむかってペーチャは《あいつはろくでなし》だと言い、ラネーフスカヤは皮肉混じりに《中学二年生みたい!》と言い返し、《滑稽な変わり者》《片輪》《出来そこねえ》と加速し、「恋愛を超越している」という言葉を弾劾する。ペーチャは中学二年生のというか小学生みたいに「絶交だ!」と叫ぶ。

ロパーヒンは舞台の右端に位置し、たまに金で囲われた桜の園の縁を歩き回り、一番よく動く。ペーチャが、そのぐるぐると腕を回すのをやめろ、と言うように落ち着きがなく、ガーエフが中身のない空想話をしている間、飛ぶ蝿をつかむように両手で何度も空をつかみ、金をつかんだ手は開かれ、ばらばらと床に金が落ちる。そして、ついに桜の園を落札したときには興奮し、苦い過去、桜の園で奴隷のように扱われていた過去を思い出し、それがようやく征服されたかのように放心し、かつてのラネーフスカヤがしていたように楽隊に音楽を演奏させる。

未来の幸福を確信し、声高に希望を謳うペーチャとトラウマを金で征服したロパーヒンと四人の家族。うまく思考することができず過去に囚われている三人が入る四角い木枠をもつアーニャはペーチャとともにその枠の中を客観視している。暗めのライティングで光は時折中央の四人を照らし、コントラストを強調する。この家族と外との境界は桜の園にあったのだが、腕を振り回し激しく動き回るロパーヒンとともにその境界は乱され、動かなかった四人が動かざるをえなくなる。

ロパーヒンとワーリャのロマンス、過去とともに現実を見据えているように見えながらやはり過去に囚われているロパーヒンと桜の園での家事仕事がなければ何をしていいのかわからない《世間知らずの》ワーリャのロマンスが成立するはずもなく、ワーリャがまわりに急き立てられて立ち上がり、ロパーヒンのもとへ向っても何も話されることなく、戻って来る。そして逆にロパーヒンが旅立ちのまえに持ちかけられ、話す時間を与えられてもそれぞれ別の道をいくことを強調するばかりでロマンスからは程遠いまま終わる。ここには何も変化をもたらすものがない。

ロパーヒンが動きで、ペーチャが言葉で、中央の四人にむかって動くことを要求するが、四人は最後まで動かず、過去の噂話やその場所に長いこと存在する本棚の話や亡霊の話などを語るばかりで、最後には追い立てられる。

原作のワーリャは何度も泣く泣き虫であったが、 ここでは泣かず、涙目になるだけ。感情はといえば召使たちとエンドウ豆の話で嫌悪を示し嘲笑するぐらいで他は空っぽで、ラネーフスカヤの起伏をなくした感じだった。

地点のこれまでの作品と同様、人物が向き合って対話することは少なく、虚空あるいは客席の上側を見つめて語られ、ワーリャがロパーヒンと話をするときも二人の視線は交わらない。口数は最年少のアーニャが最も少なく、ロパーヒンとラネーフスカヤが多いか。

数々の困難を経て《こんな悲惨な結果になって、いったいぜんたい何が起きたのだろう》というフィッツジェラルドの書きはじめるきっかけとなるような問いは出されない。呆けたような顔をして虚空を見つめて足をぶらぶらさせて話すばかりで、過去から何かを引き出そうという意志は感じられない。ロパーヒンは過去を現在克服すべきものとして措定し、ペーチャは過去を捨て現在の不断の努力によって未来への希望を獲得するよう促すが、中央の家族は加速した現在に流されるがままで、抗うことも少ない。じっと動かないでいるという行為は一種の抵抗であるかもしれないが、資本主義はそんなものを許さない。《不断の勤労》か金か。ペーチャとロパーヒンが現代的であるのに対し、過去に執着する三人はその場からいなくなれば忘れ去られる過去、遺物であり、無力である。

個人的な忘れられない過去が存在するがゆえに現在において周りからさまざまな有効な提案がなされても、聞き入れることができず、決定することができず、流れに決定が委ねられてしまう。過去は流れず、無表情のうえを、黙っていたほうがいい戯れ言のうえで現在だけが滑り落ちていく。

 

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)