地点『桜の園』

チェーホフ四大戯曲の一つ「桜の園」の再演。

登場人物はラネーフスカヤ(安部聡子)、アーニャ(河野早紀)、ワーリャ(窪田史恵)、ガーエフ(石田大)、ロパーヒン(小林洋平)、トロフィーモフ(ペーチャ - 小河原康二)。神西清訳の人物紹介の最初から六人が選択された。小間使いのドゥニーシャや《二十二の不幸せ》のエピホードフはいない。

開演前からロパーヒンとトロフィーモフは舞台に上がり、ロパーヒンは一円玉で囲われた桜の園の縁をぐるぐると歩きまわり、トロフィーモフは椅子に座って本を読んでいる。そこにラネーフスカヤ、アーニャ、ワーリャ、ガーエフの四人が不気味な卑しい笑い方で登場し、中央の積み上げられたフレームの残骸の上に陣取る。四人にはそのフレーム、写真や絵画、画面の典型であり、時間の経過したもの、過去を想起させる四角い枠が宛てがわれる。まだ若く、桜の園に未練のないアーニャは枠外の上から支えもち、その枠内にはラネーフスカヤ、ワーリャ、ガーエフの三人が入り、ワーリャが時折ロパーヒンの元へ歩いていく動作以外は動き回らず、その場でしゃべりつづける。「かもめ」よりは明るく「ファッツァー」よりは暗い照明は枠内の三人を照らす。

まず目につくのはラネーフスカヤの《崩壊》した様、その痛々しさ。躁鬱。躁のときは裸足の足を廃材に打ちつけながら声音高くしゃべり、鬱のときは庭に死んだ母の亡霊を見、死んだ息子のことを思い出す。生まれたときからの長く美しい過去は金遣いの荒いどうしようもない男に嫁いで金をなくして息子のグリーシャが川で溺れ死に、どうしようもない男に捨てられ、文字通り《崩壊》の一途を辿り、美しい過去の象徴であった桜の園までが差し押さえられようとしている、というのに、ロパーヒンの現実的な提案(別荘地として貸し出せ)もろくに聞かず、しがみつく。劇中、何度か口にされる《わたしの胸や肩に下がる重石》は息子の死から現在までの悲劇をさすのだろうが、美しい庭とともにあった《清らかな時代》もまた《重石》となっている。ウディ・アレンの「ブルージャスミン」の奥さんと同じく金がなくなっても金持ち生活が抜けずに麗しき過去を夢見る… 脇汗化粧だらだらのジャスミンと違ってラネーフスカヤに俗悪さ醜悪さがないのはそこ、現在にエゴが見えずもぬけの殻になっているように見えるからか。

そして最もコミカル、滑稽なガーエフ。おしゃべりで一席ぶちたがるガーエフは競売に出される桜の園を守る金を得られるだろうといいかげんな嘘をつく。周りから、しゃべりだすと無駄なことばかり、黙ってろと言われれば自分の悪癖を認め、おしゃべりを止めて大好きなビリヤードのことを考え「黄玉は隅へ、空クッションで真ん中へ」「トゥークッションで真ん中へ」と空想ゲームをして気を休めるが、悪癖は治らず。

ラネーフスカヤと近しい空疎な目でまわりを眺めるワーニャは自我、個といったものがなさそうな態度、話をし、結婚が噂されるロパーヒンともろくに話をしない。ワーニャがロパーヒンと結婚をすれば金にも困らず、桜の園も自らのものとなるのに、ラネーフスカヤ、ガーエフとともに現実には動こうとしない。

思考を行なう《万年大学生》と揶揄されるペーチャは立ち上がり、梯子に足をかけ、本を読みながら時折顔を上げて声を上げる。農家出身で親父に叩かれつづけてきたロパーヒンとペーチャは身の上のうえで対極にある。ペーチャはインテリを批判し、労働者の酷い労働環境を嘆く。そして考え方を同じくし《恋愛を超越している》間柄であるアーニャと前進することを叫ぶ。

ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は広大で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ(略)ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱をかこったり、ウォッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、ーーそれは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。

とアーニャに語り、幸福の予感を伝えるが、舞台では二人の距離は始まりから終わりまでいっこうに変化せず、恋仲にあることさえ意識されず、ペーチャの語りかけは《オーバーシューズがない》という叫びで終わる。

ペーチャと思想的に対極にあるラネーフスカヤとワーリャは言い争いをし、ペーチャは《いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです》と言い、ラネーフスカヤがからくり人形のように早口で反駁し、読書漬けの大学生風情を批判し、恋愛談義となり、今もまた帰ってきてくれとすがるフランスの夫を愛していると言うラネーフスカヤにむかってペーチャは《あいつはろくでなし》だと言い、ラネーフスカヤは皮肉混じりに《中学二年生みたい!》と言い返し、《滑稽な変わり者》《片輪》《出来そこねえ》と加速し、「恋愛を超越している」という言葉を弾劾する。ペーチャは中学二年生のというか小学生みたいに「絶交だ!」と叫ぶ。

ロパーヒンは舞台の右端に位置し、たまに金で囲われた桜の園の縁を歩き回り、一番よく動く。ペーチャが、そのぐるぐると腕を回すのをやめろ、と言うように落ち着きがなく、ガーエフが中身のない空想話をしている間、飛ぶ蝿をつかむように両手で何度も空をつかみ、金をつかんだ手は開かれ、ばらばらと床に金が落ちる。そして、ついに桜の園を落札したときには興奮し、苦い過去、桜の園で奴隷のように扱われていた過去を思い出し、それがようやく征服されたかのように放心し、かつてのラネーフスカヤがしていたように楽隊に音楽を演奏させる。

未来の幸福を確信し、声高に希望を謳うペーチャとトラウマを金で征服したロパーヒンと四人の家族。うまく思考することができず過去に囚われている三人が入る四角い木枠をもつアーニャはペーチャとともにその枠の中を客観視している。暗めのライティングで光は時折中央の四人を照らし、コントラストを強調する。この家族と外との境界は桜の園にあったのだが、腕を振り回し激しく動き回るロパーヒンとともにその境界は乱され、動かなかった四人が動かざるをえなくなる。

ロパーヒンとワーリャのロマンス、過去とともに現実を見据えているように見えながらやはり過去に囚われているロパーヒンと桜の園での家事仕事がなければ何をしていいのかわからない《世間知らずの》ワーリャのロマンスが成立するはずもなく、ワーリャがまわりに急き立てられて立ち上がり、ロパーヒンのもとへ向っても何も話されることなく、戻って来る。そして逆にロパーヒンが旅立ちのまえに持ちかけられ、話す時間を与えられてもそれぞれ別の道をいくことを強調するばかりでロマンスからは程遠いまま終わる。ここには何も変化をもたらすものがない。

ロパーヒンが動きで、ペーチャが言葉で、中央の四人にむかって動くことを要求するが、四人は最後まで動かず、過去の噂話やその場所に長いこと存在する本棚の話や亡霊の話などを語るばかりで、最後には追い立てられる。

原作のワーリャは何度も泣く泣き虫であったが、 ここでは泣かず、涙目になるだけ。感情はといえば召使たちとエンドウ豆の話で嫌悪を示し嘲笑するぐらいで他は空っぽで、ラネーフスカヤの起伏をなくした感じだった。

地点のこれまでの作品と同様、人物が向き合って対話することは少なく、虚空あるいは客席の上側を見つめて語られ、ワーリャがロパーヒンと話をするときも二人の視線は交わらない。口数は最年少のアーニャが最も少なく、ロパーヒンとラネーフスカヤが多いか。

数々の困難を経て《こんな悲惨な結果になって、いったいぜんたい何が起きたのだろう》というフィッツジェラルドの書きはじめるきっかけとなるような問いは出されない。呆けたような顔をして虚空を見つめて足をぶらぶらさせて話すばかりで、過去から何かを引き出そうという意志は感じられない。ロパーヒンは過去を現在克服すべきものとして措定し、ペーチャは過去を捨て現在の不断の努力によって未来への希望を獲得するよう促すが、中央の家族は加速した現在に流されるがままで、抗うことも少ない。じっと動かないでいるという行為は一種の抵抗であるかもしれないが、資本主義はそんなものを許さない。《不断の勤労》か金か。ペーチャとロパーヒンが現代的であるのに対し、過去に執着する三人はその場からいなくなれば忘れ去られる過去、遺物であり、無力である。

個人的な忘れられない過去が存在するがゆえに現在において周りからさまざまな有効な提案がなされても、聞き入れることができず、決定することができず、流れに決定が委ねられてしまう。過去は流れず、無表情のうえを、黙っていたほうがいい戯れ言のうえで現在だけが滑り落ちていく。

 

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

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タチ『ぼくの伯父さんの休暇』

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「プレイタイム」「ぼくの伯父さん」もいいが、個人的にいちばん好きなのは「ぼくの伯父さんの休暇」

大がかりな装置、成金趣味の家もなく、こじんまりとしたバカンス先の海辺のホテルというより旅館のような小さなホテルで、例によってごにょごにょと何を話しているのかわからないタチがバカンスを楽しむ。多くの男たちの視線を集める女の子が登場し、別のホテルに入ってレコードをかけ、出窓を開いて外を眺める。そこでは波の音と子どもたちが遊び興じる声が混じりあい、かなりチルな画面になる。

何度も流れるテーマ音楽、登場人物よりも存在感のある主要登場音の海風、立て付けの悪いドア、存在しないピンポン玉、壊れて戦地の銃撃音を鳴らすエンジン、蓄音機、花火が、びっくりするぐらいの無音がつづくなかで鳴りだすと、エピソードが動き出す。

ユロ伯父さんは壊れたエンジンを直そうともせず、堂々と浜辺に乗りつける最初からノイズとして現れる。そのノイズはある人には嫌われ、ある人には好かれる。

支配人との挨拶、パイプをくわえたまま名前を言うことぐらいできそうなのにそもそも伝える意志がないのか、とにかく口べたで吃りなのか、まったく聞き取れない。バカンス客の相手にうんざりしているのか常にしかめっ面の支配人は神経症的でいまいちよくわからない反応を示し、もう一人のロビーボーイは不安気な顔で常にごにょごにょと何かしゃべっていて、どちらも変。

ユロ伯父さんはそんな二人にはお構いなく、みながくつろぐロビーラウンジの一角で大音量でレコードをかけはじめ、馬に嫌われてドタバタ劇を繰り広げ、仮想パーティーでは女の子と優雅にダンスをし、他のツーリストたちとのテニスではラケットを買った小売店のおばさんの他愛のないジェスチャーからうまれたまったくオリジナルなフォームで無敵のプレイヤーとなり、セイリングではボートが真っ二つに折れ、怪獣騒ぎを起こす。

偶然の産物ではなく、小さな要素の連鎖があって起きる小さなドラマがいたるところに散りばまめられ、どれひとつとして見逃せないのだが、あまりよく覚えていない。それでもいつかのバカンスのようにふと思い出される、微笑ましい記憶。

極めて印象的な、誤って点火された倉庫のなかの花火の美しさ。田舎にしかない暗闇のなか、夜の暗い海のうえで四方八方に飛び散る花火、統御されない自由な飛行。

ひとりでやってきたおばさん、退屈な妻に連れられて毎日毎日同じところをぐるぐると散歩するおじいさんは観客とともにユロ伯父さんに感謝する。

 

ぼくの伯父さんの休暇 [DVD]

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親しい人に会えなくなるとはどういうことか Ⅰ(ロブ=グリエからゴダール)

人に会えなくなるという状態。はなればなれ、仲違い、別れ、離婚、絶縁、絶交、死別。

これらの行為、状態は悲劇として扱われることが多く、他者と関係して生きていかねばならない人間ならいずれか一度は経験する。悲劇として扱われるのはそれらが悲しみを引き起こす要因となるからであり、悲劇がつくられるのはそれが世界に求められているからである。

ロラン・バルトは悲劇を《人間の不幸を集約し、それを包摂し、したがって必然性や叡智や浄化のかたちでそれを正当化する手段》であり、《油断のならない》ものとし、それに《屈服するという卑怯な真似をせず》《技術的な手段》を探求することこそが必要な企てだとする。

ロブ=グリエは「新しい小説のために」の「自然・ヒューマニズム・悲劇」という単語を並べた章で、悲劇をめぐる考察に人間味、ヒューマニズムを加え、人間の感情に寄り添うイメージとしてのモノを生み出す隠喩をギリシャ的な紋切り型だと糾弾する。そういった人間にとって世界は《物質的な目的》のために利用するための場であり、道具であって、必要とされないモノは無意味となる。ここで《人間とモノとのあいだに存在する距離の救出の試み》として悲劇が登場する。ヒューマニズム、人間中心主義が取り逃したくないもの、それは世界の理解を阻む無であり、使用価値のないモノであり、そのあいだにある《断絶》を救うものとして悲劇をつくりだす。幸福の追求ではなく、《不幸の祝福》、それを容認するのではなく自らを犠牲にして絶えざる闘争を繰り返し、不幸、悲劇を崇高化する。

ロブ=グリエがその例として挙げるのが《孤独の機能》である。別れ、消えてしまった女の名を呼ぶ男がいて、何の返事もない。そこで彼は誰もいないし彼女もいないと結論するのではなく、彼女は「ほんとうは」そこにいるのだが、何かがあって返事しない/できないだけだというように行動を構成していく。そうすると呼びかけのあとにつづく沈黙も、「ほんとうの」沈黙ではなくなる。そして彼は自らの魂、内面のことを考えざるをえなくなる。呼びかける自分とこちらに声を発することのできない彼女との距離は苦悶となり、期待にして絶望、生活のひとつの意味/中心となっていく。彼は必死に考える…… どれくらいのあいだ? どれくらい長く? もっと大きい声で? ちがった言葉を? もう一度やってみよう…… やがて彼は誰も返事しないという事実を悟る。しかし、彼は呼ぶのをやめることができない。彼の呼びかけによって存在しつづける目に見えない現存が、永遠に沈黙にむかって不幸な叫び声を投げかけつづけることを強制するからである。その繰り返し…… 正気を失い、狂気へ向い、彼の孤独はある高次の必然性、救済の約束に変容する。そしてその救済が果たされるために、彼は死ぬまであてもなく執拗に叫びつづける。

 

距離、分離、二重化、剥離という要素は《孤独》と同じように苦悩を慈しみ、崇高化する経過を辿ることができる。この悲劇をめぐる冒険において発生する疑似必然性=救済は、《永遠の運動という見せかけのもとに、逆にのどをごろごろ鳴らせる自己満足的な呪詛のうちに、世界を凝結させてしまう》ものであり、不幸を癒すどころか、愛させる。モノと人間のあいだの断絶は存在せず、すべてのモノとのあいだに《魂の橋》がかけられ、以上の崇高化の操作後はさらに強固な橋となる。だからこそ悲劇的な思考は《好んでいたるところに距離を設定する》。自分と他人、人間と自分自身、人間とモノ、モノと世界、世界と世界自身のあいだ…… 一種の秘密の距離、内的な距離を設定すること自体が和解であり、結局、ヒューマニズムの《微笑にみちた最終的和解》しかないのか。ロブ=グリエは悩むという悲劇の形式に依りたくはないが、そこから解放されるために悩む。

 

ここで引かれるのがサルトルの「嘔吐」、カミュの「異邦人」の汚染されている世界を見つめる視線である。この二つ、またベケットの諸作品をさす《不条理》もまた悲劇的ヒューマニズムの一形式である。「異邦人」はそれを痴情の絡んだ事件、恋人のケンカにおいてパスカルの言う《われわれの条件の本来的な不幸》を開陳し、世界を殺人行為の共犯として告発する。「嘔吐」においては海岸の小石、ドアの把手、独学者の手という触覚による啓示が示され、視覚ではなく触覚からモノとの距離が思考される。そしてモノの《色彩を見ること》へ移行する。ロカンタンは色彩と触覚の類似を経験し、《色は移ろいやすく、それゆえ、生きている》ということを発見し、《モノも彼自身とおなじように生きているのだ》ということを知る。ここでモノは完全に自立し、人間から離れる。最後に残された線もまた自己との一致を見せるものは存在せず、悲劇的な世界、モノとの距離が設定された世界にいることになる。ロカンタンの唯一の描写法は《類推》であり、彼はもはや彼の代名詞ともなっているマロニエの木の根っこは黒い爪、煮詰められた皮、かび、蛇のなきがら、禿鷹の爪、動物の大きな足、あざらしの肌、ついには吐き気となる。ロブ=グリエは「嘔吐」における《実存は、内的な距離の不在によって特徴づけられ、吐き気とはそうした距離にたいして人間が感じる、ひとつの不幸な内臓的好み》だとし、「嘔吐」もまた自然ーモノと悲劇を高度の段階まで推し進め、戦い、「異邦人」と同じく新たな力を賦与することにしかならなかったという。

 

ロブ=グリエは小説を書くにあたって、線を用い、幾何学的な情報も描写に取り入れた。《対象を再現することしか目的とせず、そのモデルと同様多くの解釈(そして同じような誤謬)の余地があれば、それだけ成功したということになる》ような写真や図面や精神的な表現とは反対に、モノ以外のなんらかの精神的、心理的、人間的な彼岸を求めようとするあらゆる可能性の息の根を止める制限としての形体描写である。自分と対象との距離(外面の距離=寸法)を記録し、それが断絶ではなくたんなる距離であることを強調すること。それはモノがそこにあること、モノがそれぞれ、自己だけに限定されたモノ以外のなにものでもないことを明らかにする。幸福な和合、合一、不幸な連帯ではなく、あらゆる共犯関係の拒否。

 

そこで再び視覚が帰ってくる。視線は《たんなる視線にとどまろうとするかぎり、モノをそれぞれの固有の位置にとどめておくから》らしい。視線には細部の遊離、浮上/熱心な観照ゆえの幻惑、嘔吐といった危険があり、慣れ、中和といった見つめることによる浄化作用もある。ロブ=グリエはそれでもやはり視線はわれわれの最上の武器であり、ことに線だけに甘んじるとき然りだと言うが、線だけに甘んじることができる視線というのはそう簡単なものではない。それがロブ=グリエの「生存の技法」なのか。主観性をもたざるをえない視線、しかし、その観点を方向づけた世界である視線の主観性こそが、世界における自分の地位を決定するのに役立つ。視線にヒューマニズムやそのときどきの感情や思い込みをべたべたとくっつけることは、この地位を隷従に貶めるのに役立つだけである。

むなしい未練もなく、憎悪もなく、絶望もなく、隔たっているものの間の距離を測定するということは、隔たっていないもの、一であるものの認知を可能にしてくれるはずで、事実、すべてが二重であるというのは嘘である――というか、少なくとも暫定的なものである。人間に関しては暫定的で、そこにわれわれの希望がある。モノについてはすでに、嘘で、ひとたび垢を洗い落とされると、モノはもはやわれわれがもぐりこむことのできる断層もなければ、振動もない、モノ自身へとしかわれわれを導かない。

距離を測り、その対象を見つめること。

足先から頭のてっぺんまで私を規制し、あらゆる思想、感情を支配する悲劇、私の身体が満足し、こころが満ち足りても、私の意識は不幸にしたままにする悲劇。その悲劇から逃れるには。この不幸もまたあらゆるものと同じように空間と時間の中にアレンジメントされている。ロブ=グリエはいつの日かそれから解放されるだろうが、いつなのか、保証はなく、それは賭けであり、人間の病を癒すことができるものであり、それゆえ人間を彼の病のなかに閉じ込めるのは馬鹿げている、 したがって《失うものは何もない》こそが唯一の妥当な賭けだ、という………が、そんな紋切り型……… 組織的な悲劇化は自発的な意志に依るものであるか、という命題は、悲劇は自然的で決定的なものだと措定する輩に疑惑を投げかける。その疑惑を探求すること、その探求、闘いこそが悲劇的な幻想(ドン・キホーテ)か。さすればそんな闘いはやめてモノに依る、というのも理に適ったことか。そんなあいだでこの論考は終わる。

 

ドゥルーズの勘違いかもしれないが、ゴダールが「はなればなれに」において世界と人間と映画について語っている。

現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ

現実的な人々と悪しきシナリオを生きる世界。ここでいう世界は悲劇に満たされている。そしてその《映画でできている》世界は安易な人間万歳のハッピーエンドで丸く収められる。それは嘘であり、欺瞞であり、偽善であって、とてもじゃないが信頼することはできない。

 

そのハッピーエンドしか受けつけないモノの見方、自己啓発ツール《プラス思考》。 プラス思考は自分の範囲外にあるモノは自分の楽観的な視点にあるモノへ単純化し、適用可能化する排他的な代物であり、自分に都合のいい道具だけをまわりに備えておく極小世界の住人にしかなれない。モノを手慣らしたつもりが、隷従してしまう。彼らのまわりには不幸な世界は存在しないし、完璧な自己という幻想を手に入れることができるが、その世界にはまがい物、嘘がはびこり、自由はなくなり、やがて身動きがとれなくなる。偽物でも楽しければいい、気持ちよければいい、という快楽主義者がやがてそのなかでしか息ができなくなってしまう事例は多々ある。そんな自家撞着、中毒状態から救ってくれるのが、別の視線、主観性をもつ他者であるが、それを受け入れるには自分の世界をすべて壊してしまわなければならない。同じ視線、同じような思考をもつ他者は何の効果ももたず、救いも訪れず、紐で足をくくられたまま二人三脚で水に溺れる二人となってしまう。

悲劇的なモノに満たされた世界でモノを見つめつづけること。距離を設定して呼び続けるのではなく、距離を測り、見つめること。

 

つづく

新しい小説のために (1967年)

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嘔吐 新訳

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異邦人 (新潮文庫)

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グランド・ブタペスト・ホテル と メルシエとカミエ

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ジョゼフ・コーネル《ピンクの宮殿》

どこに目をやっても楽しめる細部への拘泥、安定したショット、選び抜かれた無駄のない脚本、くだらないものの排除、愛すべき映画の引用、素晴らしいキャスト… ブニュエルだったら吐き気を催すであろう左右対称の多用、中心構図からの横移動、縦移動で安定する画面、テンポよく切り替わるカット… 多くの画面的特性、唯一の作家性をもつウェス・アンダーソンの最新作には筋があってしかもサスペンスだった。

 

今作は画面だけでなく、物語も安定している。成長潭《天才マックスの少年》から父と子と死を巡る《ライフ・アクアティック》、家庭群像劇《ロイヤル・テネンバウムズ》、三兄弟のロードムービーダージリン急行》、人形劇《ファンタスティックMr.Fox》、恋人の逃避行《ムーンライズ・キングダム》にも始まりと終わりがあり、《ライフ・アクアティック》、《ロイヤル・テネンバウムズ》では丁寧に章立てもされているが、今作にはより明確な物語の筋がある。話し手ムスタファが劇中、所々で登場し、ムスタファによる話の順序変更も明示される(アガサについて)。ある人物が語っていることが目の前に描かれている。

 

作家が説明を挟みながら進めていく物語あるいは説明なしで進む物語では作家から観客へ直接関係が結ばれる。《ムーンライズ・キングダム》における緑の帽子と赤いコートを着たボブ・バラバンはナレーターとして登場し、物語の要素を説明するだけで物語自体は語らない。登場人物のナレーターは作家と共同で観客と結ばれる。そして今作の物語内物語では実際には作家が物語を語っているのだが、構造としては作家は一歩退いて、話し手の話を聴きながら物語を進めていくことになる。観客はムスタファの聞き手であるジュード・ロウといっしょに物語を聞いていくのであって、そこに参加することが望まれている。もしそこに筋がなければ、わけのわからないボケた老人の話としてペルシャ猫のように窓から放られ、席を立たれてしまうだろう。

 

だから《グランド・ブタペスト・ホテル》では以前の作品よりもショットがわかりやすく繋がり、話が脱線することも少ない。つまり話し手であるムスタファとその恩人であるグスタヴが中心にいて、その二人が映るとものすごいスピードで話が進んでいく。これまでの群像劇にはもちろん主人公と言えるような二人あるいは三人あるいは多数が存在していたが、ここまで話の中心となる二人はおらず、そのせいもあってまわりの人間の描写を削らざるを得ない。それはサスペンスという形式をとってしまった以上、仕方がない。ムスタファはアガサのことを思い出すのが辛くて話を後回しにしてしまい、さらに涙まで流すのだが、その過程はほとんど観客の想像力に任せられている。

そのサスペンスにおいて重要な謎、といっても失踪した執事のマチュー・アマルリックと彼がタブローの裏に忍ばせた第二の遺書ぐらいで、大猿ウィリアム・デフォーの残虐描写が入るからそうなったという感がある。アガサが天井の物音を気にして天窓を開いて閉じ、章が変わり、エイドリアン・ブロディのもとに生首の入った洗濯カゴが持ち込まれる。洗濯カゴといった時点でアガサではないとわかるのだが、繋がりと、ムスタファのアガサの話に対する逡巡のせいもあって嫌な予感を持ってしまう。このどちらかわからないドキドキ宙づり状態がサスペンスお得意といったらそうなのかもしれないが、謎をじらして秘密を隠して、といったようなめんどくさいごまかしはなく、これまでのウェス・アンダーソン作品よろしく、行き当たりばったりで次々と出来事が起きる。これまでと違うところはそこに逡巡、ためらい、躊躇、迷いといった《人間味》あふれる中断や脱線がないところで、今作ではハイスピードで描写がなされ、常に誰かが動いている。終盤になってようやく物語が落ち着き、現実に戻る。

 

「率直にいって彼(グスタヴ)が来たときには彼の世界ははるか昔に消失していたーーーーでも彼は感嘆すべき優美さとともにその幻影を維持してみせたのさ」

 

という誰もが印象に留めるムスタファの言葉、そしてグスタヴがもっとも勇敢な姿勢を見せる電車内のシーンでゼロへ言う《最後の人間味》ーー《くそったれ》。その変遷はベケットの《メルシエとカミエ》におけるワットが想起させる。

ワットはベケットゲシュタポからの逃亡期に書かれた小説《ワット》の主人公で、旅の終盤でメルシエとカミエの前に現れ《ゆりかごの時代からの》二人を知っている、と言ってバーでウイスキーを飲むことになる。そこで隔行対話がなされ、結局ワットは独り言を言っているような形になる。

「わしもね、捜したんだよ…ひとりぼっちでね、ただ、わしは、それがなんだかわかっているつもりだった。なんてこった」「うれしいね、ほんとにうれしいよ、おかげでね。あんたがたがわしを元気づけてくれる、ほとんどそう言ってもいい」

しかし、メルシエとカミエはうわの空で話を聞いていて、ワットの言葉に対応しない言葉で話す。

ワット「あんたがたがいつか、今わしが感じていることが感じられたらな。それは、むだに生きてしまったということに変わりないが、しかし、なんと言ったらいいかーーー?」

 

「古びた心にとって、わずかなあたたかみだ、そう、古びたあわれな心にとって、ほんのわずかなあたたかみなのだ」

 

このあとカミエがメルシエに応対し、無視された格好になったワットは強くテーブルを叩く。そして《激情を挑発する声で》「くたばっちまえ、人生なんぞ!」と叫ぶ。胸にチューリップをさした主人あるいは支配人がやってきて出て行くように言うが、メルシエとカミエが人情に訴える嘘を言ってなんとか居座り、ワットは一時眠っていたが、目を覚ますと杖で隣のテーブルを叩き、杖を投げ捨て瓶やらコップやらを壊しまくり、再び「人生なんて糞くらえ!」と叫ぶ。

 

オンボロヘリコプターで墜落死したオーウェン・ウィルソン、ヤク中のオーウェン・ウィルソンに轢かれた犬、子どもの弓矢に刺された犬、窓から放り投げられたペルシャ猫、脱獄中に勇敢に闘って死んだ一人の囚人… 死を描きはするものの凄惨、悲惨にまでは踏み込まないウェス・アンダーソンはワットまではいかない。再び同じ場所で電車が止まり、グスタヴが最後に対峙したのはファシスト、《最後の人間味》がなくなってしまった相手であり、そいつらにむかって「ぶっ殺してやる」と言うのがやっとのグスタヴはいつ殺されてもおかしくないような人間だった。アガサは殺されるにはあまりにもかわいそうで、やはり殺されない。

 

ムスタファはグランド・ブタペスト・ホテルが時代遅れの産物になっても売り払わず、オフシーズンに滞留する。グスタヴという人間あるいは最後の行為に繋がっているグランド・ブタペスト・ホテルは孤独なムスタファにとって《わずかなあたたかみ》を想起させる場所なのだろう。

ジュード・ロウは安定した小説家として話を聞いて小説にし、そして現在、冷たさとあたたかみを併せ持つ墓地においてその小説を胸に抱えている少女がいる。ワットが失敗する、《わずかなあたたかみ》を誰かに伝えるという行為が果たされるとしたら、それは無意味に思える人生においても素晴らしいことだろうが、それはほとんど奇跡に近い。

 

初恋/メルシエとカミエ

初恋/メルシエとカミエ

 

 

生きねば と 情報(風立ちぬ / CATCH-22 / フライデー / 寝ても覚めても / 吉田調書)

宮崎駿風立ちぬ』の宣伝文句「生きねば」。劇中では最後に死んだ菜穂子が夢に出てきて二郎に「生きて」と言う。なぜ生きるのか。自分は不幸だと思った瞬間に同時に派生する問いに親しい他人が介在し、反転する。しかし、その他人がいなかったら。

 

ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』のヨッサリアンは冒頭から生への執着を見せ、絶対に死にたくないと死の恐怖を語り、仮病と狂言を元手に何度も帰国を願い出る。一方、間抜けな風貌をしたオアは隊長ら上司への嘆願は行なわず、わざと不時着をして機をうかがう。奇跡ではなく用意周到な戦略にヨッサリアンは感動する。

 

スコリモフスキ『エッシェンシャル・キリング』のヴィンセント・ギャロは道行く女の母乳を吸ってまで生き延びようとする。ここでは逃げるという目的が死を遠ざける。

 

キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスは一度首つりを試みるが、岸壁に打ちつけられて痛みのなか死んでいくのを嫌がって思いとどまり、バレーボールのウィルソンとともに生きのびる。

 

トゥルニエ『フライデー、あるいは太平洋の冥界』のロビンソンは無人島における孤独な生存の技法を見つけたかに見えた。しかし、フライデーの登場とともにその技法も崩れ、親しくなりかけていたフライデーを置いて文明世界へ戻っていく。柴崎友香の『寝ても覚めても』の主人公がした男の選択も少しこれに似ている。

 

ジャック・ベッケル『穴』の若く聡明なガスパールは追われる身を嫌がり仲間を裏切って一人だけ外に出る。

 

華岡青洲の妻』と母は夫のためと言いつつ、競って未完成の麻酔薬を飲みあい、母は衰弱死、妻は失明する。

 

死を補完する生。生を補完する死。「死にたくないだろう」「このまま何もせず手をこまねいていれば殺される」という脅しを有効にするために人種、性、遺伝特質を利用して敵を生みだし、「あなた方は生きねばならない」と呼びかけ、その「あなた方」に入れない者たちを排除する。《情報》(国籍、人種、宗教、民族、性別)による選別。その排除された者たち=敵は自分たちを攻撃してくる相手、死の脅威を浴びせてくる相手となる。

 

しかし、もしかすると生と死の結びつきは希薄化し、脅威に怯えるのではなく、ただ嫌悪しているだけなのかもしれない。死んだような生、死よりも耐え難い生は「どうせなら」「いっそのこと」というヤケクソに繋がり、恨みつらみ、憎悪、ルサンチマンの解消へと向う。自分たちの安穏な暮らしを守りたい、という大義名分のもとちょっとでも脅かす相手を排除する動きに出てスカッとしたいだけだとしたら悲惨極まりない。

 

デマゴーグに突き動かされる者たち。世の中には間違った情報がたくさんあることを知っているはずなのに、自分の嫌悪・疑念に合致したものがあると食いついてしまう。秘密保護法が施行されていたら確実に外に出なかったであろう吉田調書を極秘に入手した! おれたちもスノーデンになってやる! 朝日新聞が嬉々として毎日毎日その物語を紡いでいる。

吉田調書 - 特集・連載:朝日新聞デジタル

要は流行りのまとめ。そんな嘘の物語ではなく吉田調書全文を開示すればいい。 第一章からして嘘をつく。吉田所長は「違反」など一言も口にしておらず伝言ゲームのミスだったことを認め、さらにそのミスが結果として功を奏したとも言っているのに、朝日は所員たちが命令違反して逃げた、する。その神経を疑う。アルシーブの扱いは慎重に行なわなければならないのに、簡略化した物語に改変する。命令違反し、敵前逃亡した事実を政府が隠していたことを糾弾するために悪者扱いされる所員たち。

社説やらオピニオンやらそういった意思表示めいたものが絡んでくると新聞社というのは急に弱くなる。ポエムめいた言い回しでデモの効果を謳い、どこから借りてきたか知らんが上から目線の老人文体で若者に選挙に行くよう諭す。新聞の意見など聞くものではなく、反面教師として眺めるだけでいい。彼らの強みは記者クラブにしかない。

今回のように情報源が明示されていてそれを改変していれば間違いがわかるが、その情報そのものを改変しだしたら情報源としての新聞の価値もなくなる。そうなりませんように。

 

 

キャッチ=22 上 (ハヤカワ文庫 NV 133)

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フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-9)

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寝ても覚めても (河出文庫)

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