2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

東京暮色 / 不気味なものの肌に触れる

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1957年。小津の明るい、雲一つない青空、高架上の駅のプラットホームで挨拶を交わす人々はおらず、暗い、灰色の空の下、雪まで降って、高架下のイメージを引き取った人々の暗い話。

原節子でさえ疲れている。二人娘の父たる笠智衆は何度問いかけても話をしてもらえない。妹は小学生みたいに語尾を伸ばして上げる話し方をする男の子を孕んでしまい、港で詰問し、カフェで待ち合わせをする。そこで長居していると警察官がやってきて補導し、男とは会えず、姉に連れ戻され、父に説教される。誰が悪いと言えば暇な警察官が悪いのだが、どうしようもない。思春期の女(妹はもうすでに短大を卒業してはいるのだが)が父を嫌うという構図、父は道を踏み外して欲しくないという一心で娘の話を聞こうとするが話してもらえず、姉の原節子母の記憶がない妹に対して母のいない環境で育ったことを同情し、父にそう納得させる。

いきなり《子を孕んで中絶した》なんて聞かされれば家族なら誰だって驚くだろうが、雀荘に集まる他人たちは笑いのネタに変えるだけ。《なんとー申しますかー》とねっとりと話す男は嫌らしいが、他人の不幸は大方そうやって消費される。

その雀荘で働く女が東京に帰ってきた母、山田五十鈴で、原節子は父の味方になって母親づらを許さず、妹は凡庸な父の愛情を受け入れられず、《自分は別の誰かの子ども》という思春期特有のオブセッションに陥り、居酒屋の一室で母を責める。

そして偶然ラーメン屋で男と再会し、男の、中絶に対しての《まあよかったんじゃないの》と無意識とはいえ他人事であることを強調し、苦しみをまったく理解しない言葉を聞いて妹はおもむろにビンタをかます。《なにするのよ》となぜかオカマ言葉になる男は相当おもしろい。《なんでこんな男と…》も思春期か。

笠智衆に話してみたところで《うん、そうだなあ》と言って沈黙されるのがオチだから話さず、その沈黙のせいで嫌悪感がどんどん増していって自分の馬鹿な行動もすべてそこに収束していく、という流れを断ち切れるのは母の登場だったのかもしれないが、母の立場は弱く、助言をしてやることもできない。姉は思い込みが激しく、優しいが理解はないため、話し相手にはならない。妹の女友達は登場せず、だらしのない男たちばかり。

妹はビンタのあと、残酷で非情な死をむかえ、帰宅した父は再び自分の育て方を後悔し、姉はそれに仄かに同意し、やっぱりお母さんがいないとダメなのよ、と安易な断定を下し、自分の子どもを妹のようにしたくないから旦那のもとへ帰ると言い出す。これまで《お父さんがかわいそう》と言って実の母に登場するなと言った姉の言葉とはにわかに信じ難い。傷つき、後悔する父にむかって、そもそも話。笠智衆は傷ついた素振りを見せず、普段の生活に戻り、昔を懐かしむようにガラガラを振って微笑を浮かべるが。

小津のなかでは異色の救いのなさを見せ、興行も低調に終わった本作は安定しておもしろくない他の作品内の男たちを批判しているようにも見え、1955年に《浮雲》、1956年に《流れる》を撮った成瀬巳喜男高峰秀子への目配せも感じられる。

 


映画『不気味なものの肌に触れる』予告編 - YouTube

こちらも悪天候の映画。 

コンテンポラリーダンスを取り入れることで物語から視線をずらし、身振りへ、ゆっくりと動く身体、手へと移行する《不気味なものの肌に触れる》 では有馬稲子のビンタのように鋭い一撃は女子高生の噛み付きに現れる。隠れた思いの昇華たる不意の接吻ではなく、相手の口を覆い、その覆った手の甲に噛み付くという行為は、別れた理由を友人(石田法嗣)にちゃんと説明しろ、と言う染谷への抵抗か。唇という柔らかく繊細な身体の一部に手を触れ、その上から噛み付くという行為は距離が近く、言葉による説明よりも多くを語っているようではある。

そして染谷は女を殺し、石田と触れ合わずに踊る。極度に緊張した沈黙のなか、民家に侵入した盗人のようにゆっくりと音を立てず、肌に触れず、動き、やがて視線を合わせ、相対する。石田はそこで「OK」と言って踊るのをやめ、警察官へ自分が殺ったと言い、外に出て行く。

カフェで男2人による相互インタビュー、つまり対話では《こわいもの》について語られる。染谷は相手の秘密の領域、そういったものが自分にはわかるのだけれど、それに触れるまでがこわく、それに一旦触れると、もうこわくない、と語る。それではなぜあの女子高生は殺されねばならなかったのか。女子高生の秘密にしていたものが石田を傷つけるものだったからか、それともその秘密の領域がわからず、《こわさ》 が極限まで引き延ばされたからか…

触れる、触れない。わかる、わからない。が今作を貫く。

兄から触れられることを拒み、走って逃げ、追いついた兄を手で形成した銃で撃つと兄はその場に倒れ、空き地の木の破片でこめかみから血を流す。そこに本物の銃があれば兄はより深い傷あるいは死んでいたかもしれず、相手に触れずとも腕を相手に向けて指を動かせば殺せてしまうという簡素かつ不気味な行為。

その兄は彼女である女とラブホテルで会話し、後頭部にあるいぼのような異物について話し、互いの後頭部をさすりあう。各々の記憶をさすりながら共有するかのように。

染谷はその彼女にむかって兄と三人で暮らしている家を、出て行ってもいい、と軽く提案し、その理由を《ホテル代がかさむだろうから》と説明する。女はそんな染谷の顔を背後からタオルで覆う。明らかに不意を打ったその行為は視線が交わされない位置から、互いの羞恥心を隠す。ことさらに強調される女の胸を見た男子高校生は性的な妄想を行ない、それを「ホテル代」へと変換する。女は「ずっといっしょに住んでいてもいい」と言うが、それはこれまで通り染谷が女に触れないという条件のもとであろう。

カフェで石田は染谷にむかって女子高生に「触りたい」と言い、染谷は「気持ち悪い」と言い捨てる。どこにでもある会話。しかし女子高生は触れることはおろか、近づくことすら許さない。そうして石田はいつのまにか「ストーカー」みたくなってしまったようだ。

兄の仕事仲間によるフリスビーの交換は一回としてうまくいかず、笑いながらそれをうまくいかせようとする仲間をよそにグループの長である村上淳はこともなげにそれを奪い受け、遠くに放り投げ、行くぞと言って歩き出す。フリスビーの投げ合いは仕事とはいえどこか繋がりたいと思いを交差させているようではあるが、村上の一投によってそんな馴れ合いは断ち切られる。

予告された鉄砲水はその境界をどう変容させるのか。

 

あの頃映画 松竹DVDコレクション 「東京暮色」

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