2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

出産に立ち合わない男は存在しない(アイス / マイルストーンズ)

 

立誠小学校の簡素な映画館というか教室で見るには長過ぎるロバート・クレイマーの60ー70年代の二本《アイス》《マイルストーンズ》、左寄りの京都でも観客は少なく、3、4人の男たち、一週間だけの上映でこの数、というのはわかる気もする。

映写機のカタカタという音をバックに… 《アイス》の場面場面でのモノローグ、政治に目覚めたゴダールの《ありきたりな映画》にあった牧歌的な語らいはなく、部屋の一室で寄り集い、リーダーらしきやつが話す… 警官に捕まり殴る蹴る、果ては亀頭に針金を差し込まれる拷問、刑務所でホモ野郎にアナル責めされるんじゃなかろうか、という恐怖によって去勢されてセックスを途中でやめる男… 男は性的制裁に怯えている。港で殺されることになるリーダーの男や落ち着き払っていながら武力行動に出るジムはリーダーだけあってそういう怯えは見せないが、そのリーダーの下にいる男たちは女にキレ、八つ当たりし、女に宥められるか一喝される。

重傷を負った女を匿う男の両親は一刻も早く犯罪者を追い出したいがために息子にここじゃ手当できんから医者へ連れて行けと言う。《死刑執行人もまた死す》でスパイを匿った老教授ー父がしたような理解は、この《革命組織全国委員会》には得られない。メキシコの解放闘争の様子なんて描かれやしないし、存在するのかもわからないが、彼らは焦り、銃を持つ。

この時期が現代にあるか。デモはいまでも永田町で、青山で、河原町で時折行なわれる。彼らはデモをせず、それよりも少ない人数で部屋にこもり、話し合い、車から自分たちでつくった新聞を投げ捨て走り去る。彼らは怯えている、警察、そのうえにいる者たちに殺されること、不能にされることに恐怖を感じており、それを払拭するべく行動にでて実際に殺されもする。それは賢明な行為には見えないが、彼らは真剣に話し合っている。

 

マイルストーンズ》はその後、そういう行為を投げ捨てた平和主義のヒッピーたちが画面を覆う。針療治を受ける木漏れ日を裸体にまぶした女、呼吸法を教わる妊婦、男たちはもっと親密な会話を求めて歩き、シンガーは歌える場所を求めてカフェに出向き、ゲイ風の男たちは共同生活を推し進め、子を一人抱えた夫婦は少ない所持金で旅に、刑務所から出てきた男。これが200分以上つづく。

夫婦は感情的な妻と理性的な夫というなんとも普通の夫婦で、男がまともなことを言って宥めているように見えるが実際に動いているのは妻であり、男が口だけという可能性が高く、車が故障したときもどちらかはっきりしなかった。しかし妻は怒りすぎる。カフェレストランでの怒りは醜い。それじゃ話にならないという男は理性の番人として批難されるのか。それはあんまりだと世の男は言うだろう。《感情を露にしなさい、表に出しなさい》はもうカップルの禁句といってもいい。表に出したところでそんなものでうまくいくはずがないから、表に出さないし、出させないようにしているのはどちらか一方の存在がそうさせるからなのに。《何か心の奥で思っているなら言ってごらんよ》そういうやり方は安易すぎる。そう簡単に取り出せるものならもう言っているはず。

こちら側を見つめて笑顔でスピッたことをしゃべり続ける妊婦にはうんざりしたが、ラストに出産することになって友人に囲まれて股を広げて力んでいるとき(そのときも彼女は笑っているように見える)、そのしゃべった言葉はすべて忘れて、ただただ一心に画面を見つめることになる。

妻の出産に立ち会わない夫は軽蔑され、やがて離婚にいたるだろう。

子を産めない男は子を産む女の傍らで手を握り、いっしょに呼吸し、奇跡を目の当たりにして涙を流し、その瞬間に立ち会って、女と子どもと生きていかなければならない。

あの瞬間にいない、という失策は一生をかけて後悔することになるだろう。

女の両足は大きく開かれ、何度も息を吸っては吐きを繰り返し、嘔吐き、ヴァギナは信じられないくらい広がり、そこから体液まみれの胎児が足から出てくる。胎児は酸素を吸い込み、大声で泣き出す。

その子どもが今後、どうなるのか、それを《マイルストーンズ》は思考する。

人の役に立ち、消え去りながらも忘れられはしない人々、マイルストーンズ。