ジャ・ジャンクー『長江哀歌』/ 富田克也『サウダーヂ』

中国、消される街に住まう人々のなか、歪ながらも夫婦という関係を持ち、はなればなれになった2人が再会する。言葉少なく廃墟のなかに佇む男と女それぞれの緩慢な動きと、『煙草/酒/茶/飴』という長い歴史を持つ「物」で物語は進む。登場人物たちの意識に浮上するのは、かつてともに暮らした妻ー夫と再会することだけであり、それがそのまま生きることに繋がっている。

山東省から南部の古都奉節へやってきたサンミンは16年間音信不通だった妻と会うために知人にあたるが、待つことを強いられ、建物の取り壊し作業に従事する。手酷くあしらわれても不満を言うことなく、引き下がって労働し、その日を待つ。瓦礫のなかで愛を歌う子ども、携帯から流れる希望の歌、ヤクザ者の友人の携帯から流れる過酷な境遇に寄り添う歌、ナイーブとも思われる直接的な言葉を歌う歌謡曲は数少ない希望となる。

一方、2年間音信不通だった夫に会いに来たシェン・ホンには歌がなく、あってもそれは成金たちが集う屋上のパーティー会場で流れる歌であり、より孤独を募らせる。大きな橋に点されるキッチュな光は2人の溝を深くするだけ、救急手当した若者から聞いた夫への疑惑は夫の言葉により解消されたはずなのに、たった2年のあいだに生まれた生活の違いはシェン・ホンの嘘となって現れる。

サンミンは妻と再会し、山東省に2人で戻ることになり、ともに働いた労働者たちも彼とともに崩れ行く街を去る。よりマシな生活、より多くの金を求めて危険な炭坑作業に従事する、「綱渡り」の生である。

「煙草」は友人がテレビにうつる俳優の真似をする、子どもがおもむろに現れてサンミンの煙草を取り、忙しく働く肉体労働者のように素早い動きで火をつけて煙を吐き出す、数少ない思い出の品であるパッケージ、サンミンが別れに先立ち感謝の品として仲間に送るシーンなどに見られる。「飴」は再会した妻からサンミンへ、廃墟のなかで差し出され、遠くで轟音をたてて建物が崩れ落ちるシーンに、「茶」はシェン・ホンが夫の残した荷物のなかから見つけて飲むシーンに、「酒」はお土産として、友人との食事の席で、地下のライブ会場で見られる。

これらの「静物」は世界中のどこにでも見受けられる。それは文化や場所によってそれぞれの受容がある。しかし、画一化は免れない。煙草も酒も「健康」を害するものであり、飴はただの商品である。本作の人物たちの交流は決して豊かなものではなく、貧困ななかのささやかな、すぐに忘れ去られてしまうものであり、実際に忘れ去って世界は動いている。荒廃した地方の、貧困の現状をうつす映画はアングラではあるが増えてきている。そこに住まう人々を低能な弱き者として連関させたものはその映画自体貧困であるが、本作はそうではなく、そこでの人と人、人と物の変わらぬ関係性を見せる。環境の変化、時間の経過によって関係性は変化していく(シェン・ホンとその夫)が、変わらぬものがあるのもたしか。

16年ものあいだ、サンミンは何を思っていたのだろうか。忘れていなかったことはたしかである。


長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]

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