ゴダール『気狂いピエロ』

物語の始めからトリュフォーのようなまっとうな説明や脈絡といったものはなく、退屈そうなフェルディナン(ベルモンド)はすぐに妻を捨てマリアンヌ(アンナ・カリーナ)と逃避行へ。ゴダールの映画に夫婦生活はなく、常軌を逸した、普通でも神経症でもなく、無責任で自由な常にさすらい、彷徨する主人公とそれを振り回す女。女は常に未知のものとして男のまえに現れる(終盤で二人が語り合う、「複雑だ」「単純よ」)

勝手にしやがれ」は白黒だったがこちらはカラー。ゴダールは色彩をもったほうが固有な画になる。赤、青、黄を中心に強い色を配置する(車のなかのマリアンヌに当たるライト)後のゴダール作品にも見られる色の配置が既に本作にも見られる。男も女も赤と青を纏い、どちらがどちらなのか明確にすることはなくどちらにもそのイメージを与えている。マリアンヌは「神秘性」などなくただ「感傷的」なだけだと言うが、フェルディナンはそれを認めず、神秘的な美をもっているのに「音と怒りの世界」に居座らされている複雑な女としてマリアンヌを見つめる。二人は最後まで結ばれない。

お互いの言葉は宙に浮いたままで会話はすぐに断ち切れる。まったく理解されない。そしてそのまま物語が進むため観客も宙づりの状態でそれを見続けなければならない(後期になるとその物語すらなくなる)マリアンヌが「何をしたらいいの」と歌うように言いながら浜辺を歩くシーン。フェルディナンが会話を試みるがやはり理解されず、二人はバラバラの共同生活をおくり、マリアンヌが抜け出す。

マリアンヌが言う「感傷」はフェルディナンが嫌悪するものであり理解できないものとしてある。それはマリアンヌの裏切りにあって船着き場で感傷に浸りすぎて過去の音楽をいまだに聴き続ける男の話で見られる。男はその曲と女にまつわる思い出を語るが、フェルディナンは「聴こえない」の一点張りで理解を示さずに船に乗り、逃げたマリアンヌとその愛人のいる島へ向い、二人を殺す。こうして筋を追えば裏切られ、その当人を殺す復讐といった構図が浮かび上がるが、フェルディナンはそのことについて語らずにその行為を遂行するため、観客は何が起きているのかよくわからない状態に陥る。二人を殺したフェルディナンは叫び声をあげ、ダイナマイトで自殺する。

海と太陽。ランボーの「永遠」。死によって永遠になったフェルディナンとマリアンヌ。

車と船を使っているが、どちらも印象的な使われ方だ。フィルム・ノワールを思わせるカーチェイス、交わらない二人の身を乗り出しての接吻、マンガのような動きをするスピードに乗った走り。波に揺られて上下に傾く船、そこに佇むフェルディナン、騒音まじりのマリアンヌのしゃべり。場面の移り変わりが早く、それがさすらいー彷徨の要素となっている。そこから停滞して詩ー歌にうつり、加速してノワールへ移行する。このジャンルの横断はサービスではなく、批判であり、けっして面白い物語のためではない。その批判は実践となり、五月革命以降の「ありきたりな」映画たちがつくられることになる。

前期の作品は退屈させない。それは配慮などではなくこのようにでしかつくることができなかったからであろう。まだインディペンデント制作をする手段を見出せず、プロデューサーをつけ、野心を持って公開する。だからたとえハリウッド漬けの人でも本作は見られる人には見られるのであろう。ゴダールの教育法は日本ではフランス以上に行き届いているみたいだが、退屈な紋切り型の批判も存在する。紋切り型を打ち壊すゴダールの映画を紋切り型のほうから批判しても無意味であり、退屈だ。面白くない、物語がないなどなど。

ゴダールはそんな批判をものともせず大衆映画のシステム、紋切り型に別れを告げ、新しい映画をつくりつづけた。「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」にはその出発がある。


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