牧野貴 + ジム・オルーク 「Generator」/ヨハン・ルフ/ベン・ラッセル/Telcosystems

吉祥寺バウスシアター爆音映画祭で。他にも「戦艦ポチョムキン+Hairstylistics」など興味深い上映がたくさん。

まずは牧野貴の新作「2012 act.3」制作中の作品で、徐々に時間が延びていくものらしい。20分前後で音は牧野貴がライブで演奏。ノイズドローンと多様な青、白、赤。霰が地に落ちて弾けるときのような音と白いペンキのブラッシュが前面に、後景は森の木々、路上?。ラスト(といっても完成していないためとりあえずの終わり)では葉の落ちた森の木々が映し出される。動きの激しい画面と圧を高めて行くノイズが合わさって完全に非日常の、普段意識しない聴覚や視覚の部分を刺激される。ドローンでは持続と反復と変容がもたらされる。画面横のスピーカーから音が出ているはずなのに耳の間近で一定のノイズによるフレーズが鳴る。高音と低音の使い分けというか高音の波長を使った新しい聴覚体験であった。常に集中して画面を見つめなければ変容を逃してしまう。


つづいてBen Russell「River Rites」。川で遊ぶ、布を洗濯する黒人の子どもたちを逆回しで再生し、途中で突然ドラムとベースの躍動的なリズムが挿入される。音に合わせて子どもたちの動く速さを変えることで川に飛び込んだ子どもがありえない動きで水面から飛び出て地に足をつける。水面の出入りと拍の始まりが合わせられていて面白かった。たったそれだけで洗濯する手の動きや泳ぎ、水面の揺らぎがダンスに変わる。


オーストリアの Johann Lurf 「12 Explosion」は多くの人がキツいと思ったのでは。夜のマンションの庭や地下鉄の高架下、歩道橋、発電所、公園、下水路などがワンカット映し出され、そこに設置された爆竹が爆破すると同時にカットが同じ場所を他の視点からとらえたカットへ切り替わる。それが場所を変えて12回行なわれるだけなのだが、爆音のせいかその爆発音はわかっていても心臓に悪かった。爆竹の破片がゆっくりと地に落ちて煙が上がるだけで動いているのは電車と車とアパートの住人ぐらい。爆発に反応するのはアパートの住人だけ(電気をつけ窓の外を覗く)で他は何も変わらないまま元通りになる。人気のなくなった街では爆発音でさえ無視される。


Telcosystems 「VEXED」は牧野貴に近しい作品。縦に分断された赤、黒、白などの粒子がドローンとともに幾何学模様となり、色彩を失って白と黒になり、縦、横、斜めと交わり、速度を増し、遅延し、粒子が離れ、個別化し、色鮮やかな粒子となって消える。美しい作品。


そして「Generator」赤い靄の奥に空から俯瞰した街、フェードアウトし砕ける波、また街、それに被せられる雲のような波。街と波(海)と空。この三つの並列はベタと言えばベタだが、言葉無しで三つを並べただけで作品を完成させたのは素晴らしい。ジム・オルークの音楽がやはり凄い。電子音の不穏なドローンにピアノが入り、ゆったりと二つの音を行き来する、寄せては引く波。そこに調和しないヴァイオリンが入って家々が立ち並ぶ街へ。そこに波が雲のようにかかって終わる。

牧野貴は時間を忘れさせる。決して長いとは思わないし、「Generator」はもっと長くてもいいように感じた。終演後、牧野貴が「VEXED」が長くて心配したというようなことを言っていたが、あれも同様である。確かにわけのわからない、抽象度もストレスも高い映画ではあるが、絶えず反復し変容しているため飽きがこない。一種の興奮状態に置かれていることもあるだろうし、もし見たくなくなることがあるならそれは「わからない」ものへの怒り、ただ耳にも目にもうるさいというストレス耐性の無さから来るものであろう。そしてそれはそのまま映画への誹りとなるだろうし、わかるやつにはわかる、間口の狭いものだと断定されることになるだろう。決して「わかる」ことなど有り得ない。作家や鑑賞者は満足することなく伝えていかなければならない。

牧野貴の「2012」も是非日本でやってほしい。

7/12、13 にライブであった「2012」以外の作品は上映されるみたいなので未見の方には是非見ていただきたい。

第五回爆音映画祭 BAKUON FILM FESTIVAL2012 オフィシャルホームページ || TIME SCHEDULE ||