2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

パーソナル・ショッパー

パーソナル・ショッパー オリヴィエ・アサイヤス 2016

セレブに代わって服を買い付けるモウリーンは双子の兄をパリで亡くし、生前の誓い、先に死んだ方がメッセージを送る、という誓いを信じて霊媒、精霊の声を聞こうと、兄が住んでいた家に行き、電気も点けずにソファに座っている。物音はするが、誰もいない。セレブ御用達のパリのカンボン通りで買い付け、次から次へ服をチェックし、買っていく。セレブの家はセキュリティも万全、ソファには雑誌の編集者がいて、セレブは弁護士とともに寝室で電話対談。ゴリラがどうのこうの。モウリーンの話は聞かない。モウリーンは編集者に質問を向けられ、答えてしまう。クール風だがクールではない。兄の元カノは家の売却先も見つかり、95日経って彼氏ができたことを告白。充分、喪に服した、生きたいの。モウリーンはもう一度、館へ行く、と、蛇口から水が出る、モウリーンはヒステリックにこれじゃわからない、声を聞かせて!と叫ぶ、すると白い少女の靄が現れ、嘔吐する。恐い。予測のつかないスピードで飛びまわるから。CG。

翌日からモウリーンのもとにUnknownからメールが来る。電話番号とか宛先のチェックをしてほしいな。お前が欲しい、身体じゃなくてな… と翻訳は男口調。まあ兄と編集者はどちらも男で、幽霊が女だったから、そうするのもわかるが、透明な口調にしたほうがよい。アンノウンにけしかけられ、モウリーンは禁じられていたセレブの服の着用を自分に赦し、ブラジャー、下着、上半身ベルト、ドレス、ヒールを身につけ、ベッドに入り、自慰して眠る。やりたい放題して目覚め、出かける。原付。家に帰ると高級ホテルの部屋のカードが入っており、そこにセレブの服で出向く。何もない。アンノウンがモウリーンの名前で予約した。セレブの家に行くと、ものは散らかっていてバッグも置いてあるがセレブの姿がなく寝室を開けると血まみれ、風呂場を開けると血まみれで横たわるセレブ。動転して一回原付で出て戻り、警察、帰宅、そのあいだにもメール、このメールのことはサツには言っていないだろうな、と、人間的なことを。幽霊ならそんなこと聞かない。彼氏とスカイプで話す。モロッコか中東のせいか画質が悪い。またあとでと切って携帯を見ると、たくさんのメールが届いており、消えた時間を取り戻すかのように相手が近づいてくる。メール見てるんだろ、このホテルに来い、お前がどこにいるかは知っている、今から行くぞ、階段まで来た、下まで来い… モウリーンはセレブの家からなぜかなくなっていたカルティエのジュエリーの入った赤い袋を自分の部屋で見つける… 翌朝、ホテルへ。ドアが開く。誰もいないのにエレベーターが開き、自動ドアが開く。透明人間? その次に現れたのは編集者でモウリーンと同じ部屋から出て来て、エレベーターを下り、外へ。待ち伏せていた青年二人に腕を摑まれ、車に連れ込まれようとするが、銃を発砲し、編集者は逃げる。

モウリーンは何事はあったが無事なようで元カノとカフェで会い、元カノの家へ、翌朝、元カノの今彼と庭で初対面、兄の話をするが、あんまり入ってこない。今彼は出ていき、モウリーンはぼーっとしていると背後の家の中にぼんやりとした人影(男)が見え、グラスが宙に浮き、平衡移動したのち床に落ちて割れる。彼氏のいる中東へ、彼氏が手配した車で山村へ、案内された部屋に彼氏はおらず、部屋を見て回っているとグラスが宙を平衡移動し、また床に落ちて割れる。モウリーンは問う。ルイスなの? ドーン!と地響き。これはヴィクトル・ユゴーが降霊術をやっていたヴィデオで見た、机の上に三人の手を置き、質問に応じて机がYESなら一度、NOなら二度揺れるのを踏まえている。やっぱりルイスじゃない、ドーン! 気のせいなの? ドーン!… つまりはすべてはモウリーンの気のせいというオチだが、喪に服すというドラマなのだろう。解せないのはセレブの殺人とホテルに持っていったカルティエはどこにいったのか、ホテルの部屋で編集者と会ったのか、だが、おそらくモウリーンは編集者とは会っておらず、幽霊による策略なのだろう…どっちでもいいが…

魂の残りもの。

 

 

夏時間の庭 [DVD]

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Trois souvenirs de ma jeunesse アルノー・デプレシャン 2015

糞邦題「あの頃エッフェル塔の下で」って・・・

わたしの青春時代における3つの思い出。ぼくらのアルカディア。素晴らしい映像の連なり。

外交官になったポール・デダリュスの幼年時代、ソ連時代、そしてエステル、エピローグ・・・ エステルのパートが異様に長い。そういうものだ。思い出す、思い出す・・・ プルースト。母親嫌い、父親には成績不良で殴られる、先生からは弟のしつけのことで怒鳴られる、大人不信、イスラエルに帰りたいロシア在住ユダヤ人のためにロシア旅行と称してロシアへ行き、ツーリストなら絶対に行かなければならない美術館へ行き、服を着替えて抜け出してその仲間のもとへ、金と本を渡し、ポールのパスポートも手渡す。盗まれたように見せかけるために駅地下で友人に殴らせ、自分で殴り、壁にぶちあててあざをつくり、コートの裏地は破いておき、なんとか成功。それからエステル。

帰ってきたポール、迎える友人はのちに怨恨を残す、妹と弟その友人たちが軽く迎える。ここもよい。その視線の先にはお高くとまったエステル、ナンパ、碁を打ちに来ないか? とにかくここの切り返しが近すぎるくらい近い。顔面でいっぱい。その後、パーティー。カレをつれてきたエステルはポールが気になり、カレはクラブにひとりで行かせ、SpecialsのI Can’t Stand It・・・ Anymore! 妹がいちばんかわいいと思うのだが、妹は帰ってきた父の部屋に行き、父と会話、なんでわたしにはカレがいないのか、わたしがブサイクだから? 父は驚き何を言ってるんだ、おまえはとってもかわいい、ただおまえが好きになる男がいないだけだ・・・ そのとおり。あなたはかわいい。エステルを家に送っていく。キス、もう一度、キス。もう一度ってやつはお決まりらしい。ニノチカ

マチュー・アマルリックが冒頭、女とキス、ヤニで染まった歯、これでいい。ホワイトニング気色悪い。そして最後、ソ連帰りのポールを迎え、パリに戻るポールをエステルと見送りエステルを慰めてセックスして奪おうとした友人と劇場で再会し、その妻といっしょにバーへ行き、まくしたてる。そんな過去のことは水に流したんじゃ? いまさらどうしようもないし・・・ はあ? お前が誘惑してダメになるのに加担したのに「思い出したから連絡先教えて」だ? いいかげんにしろ、お前は自分のしたことを考えるべきだ、ただのお遊びじゃないんだよ、関係ってやつは! 怒りはいまもなおつづく。それは自分にももちろん。

 

 

そして僕は恋をする [DVD]

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不正義の果て クロード・ランズマン 2013

もともとは『ショア』のため1975年に撮影されたインタヴューに、新たに撮りおろされたパートを加えて構成されている。中心となるインタヴュー・パートは《テレージェンシュタット》強制収容所ユダヤ評議会最後の長老として戦争を生き延び、当時ローマに住んでいたベンヤミン・ムルメルシュタイン(1905-1989)という人物の姿を映し出す。《テレージェンシュタット》とは、ホロコーストの“総責任者”アドルフ・アイヒマンにより国外向けプロパガンダ(美化)のための“理想のゲットー(模範的収容所)”として建設された。そしてユダヤ評議会というのは、ナチスがゲットーを管理するための機構だった。つまり評議会ナチスとの直接交渉を行い、その命令によって人々の生き死にを左右しなければならないという役割を負っていたのである。ムルメルシュタイン自身もまた、7年もの間アイヒマン本人と丁々発止のやりとりを続けながら、ほかの長老たちがあるいは処刑され、あるいは自殺する中でひとり生き延びた。思想家ゲルショム・ショーレムなどは、エルサレムにおける裁判でアイヒマンに下された絞首刑という判決には異議を唱えながらも、ムルメルシュタインは処刑されるべきであると主張した。実際、戦後彼はチェコで裁判にかけられているが、すべての容疑について無罪の判決を獲得している。ただし本人はその際に、こんな言葉を残したのだという。「ユダヤ人長老は有罪となってしかるべきだ。だが長老の立場とはどんなものか誰も分かるまい」。そこから自らを、「The last of the unjust(最後の正しくない人)」と呼ぶ。(サイトより)

アイヒマンが凡庸な悪だなんてとんでもない、デーモンだ。裁判の様を見てのアーレントの感想よりこちらのほうが説得力がある。《冒険欲》、家族もいてその家族を守りたい、自分たちは生き延びたいと思うのならアメリカやイギリスにも逃げられたものを、エルサレム(当時はパレスチナ)に帰還する許可証を送ってもらったにもかかわらずそれを他人に譲ってその場に留まった長老、収容所に移送される前にフランス、スペイン、ポルトガルユダヤ人を移送するプロジェクトを成功させ、アイヒマンに強制送還をやめるなと拳銃で脅されながらもなんとか持ちこたえるが、テレージェンシュタットに派遣され、衛生課と技術課という専門外の課の長に任命されながらも屋根裏部屋をチフス患者のための病室に建て替えさせ、美しいテレージェンシュタットという物語を語りつづけるために美化運動を推進し、そのまま生き延びる。嫌われていたらしい。そのやり方はたしかに長としての権力を使って人びとに命令するもので、反感も買うだろうが論理的であり筋は通っている。失敗すれば死ぬ、しかも自分だけでなくここにいる全員が、という責任と恐怖によって緊張感はあっただろう。それがひとには理解されない。殉死者は聖人ではない。セックスも金も生き延びるために使われていた。死者の重々しさはその語りにはない。ランズマンがたまにあなたは組織の話ばかりで悲惨さについてはあまり語られませんね、とえぐいことを聞くと、じゃあ、と骨壺を処分させられた話をする。最終解決、死者の存在した証さえ残さぬよう、灰までも処分すること。それは44年10月、命令によってなされ、これはやばいと感じたムルメルシュタインは週70時間労働を命じ、組織を堅固なものとする。

プレゼント、キャンプ、紳士ぶる余裕はありません、新しい泉を探せさもなくば(間、微笑)死を意味する、カディッシュ、コロセウムが存続すればローマも存続する、骨壷を処分すればテレーゼンシュダットは消滅する、無力の権力、アウトバーン上の恐竜=ユダヤ人長老・・・

ランズマンの詩的感傷的な説明よりはこの太ったおっちゃんのほうが断然、おもしろい。

 

 

 

6才のボクが、大人になるまで / ニンフォマニアック

Boyhood/リンクレイター

コールドプレイの《Yellow》で始まり、ポップス、オルタナが続く。Wilco,Yo la tengoには思い入れがあるようで。

12年の歳月をかけて撮影するとなるとその間にいろんな出来事がある。出演者が生きているか、アル中になってしまうかも、病んでしまうかも、出資した会社が潰れてしまうかもなどなど不安もあったが、完成したホームドラマ。観客は安心して見ていられる。映画というのはその点でテレビと変わりないし、ビデオ・DVDが普及してからは尚一層テレビに近づく。その中で何かを見せなければならないという制約が映画を古典的にする。そんな映画にさらにPGうんたらと年齢制限をかけるなんてバカな真似までなされる。CGはどうか。もはやカメラも必要ない。俳優は緑色の幕の前で紐につられ、格闘する。これは映画ではない、そう言いたくなる気持ちはわかる。フィルムからデジタルに移行したとしてもカメラで撮り、編集し、観客に見せるという行為は変わらない。金はそこにCGをもってきて映像を装飾し、より迫真的に、ドラマティックに、面白おかしいものに変えさせる。物語は小説に任せておけばいい、と言ったのはゴダールだったか、しかし映画にも単純でわかりやすく感情移入のできて泣けて笑える物語が要請されつづけている。そういうものを見ているとなんとも平和な気分になってくる。今作も例外ではない。

妹のサマンサだったか、ぷっくり唇が弟に口汚く接する。イーサン・ホークは完全にやんちゃなおっさん化し、たまに子どもに会う優しくてちょっと変でおもしろいパパという美味しいとこどり。母親は男を見る目がなく、失敗をつづける。心理学なんかやってるとそういうことになる。類型で見ていってもアル中かどうかぐらいわかりそうなものを。娘はそんな事態を招いた母にキレ、母も逆ギレ。どう考えても母がよろしくないのだが、シングルマザーは辛い。とばっちりを食らうのはいつも子ども。家族。

シャンプーのCMかテイラー・スウィフトのPVに出てきそうなハイスクールガールと恋に落ちたメイスン。キスシーンでYo la tengo《I'll be around》。しかしあまり印象には残らない。フィルムで撮ったらしいが、デジタル処理がなされているのだろう、薄っぺら。それは『ビフォア・ミッドナイト』におけるギリシャの観光地映像にも言える。『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』はもちろん寄りの問題もあるだろうが、生々しさがあって、夜があり、キスシーンもお決まりの流れからは外れていた。スパイク・ジョーンズの『her』と同じく、ブレのない流れるようなカメラワーク、デジタル処理でノイズを失った映像、整った構図、モデルルームのような内装、セットのような外観の薄っぺらな映像だらけで、退屈。それがリアリティか? そんなのはテレビのリアリティであり、映画はそこにやすやすと加担してはいけない。安易で薄っぺらなドキュメンタリーのようなリアリティ作成。

感動的なのはホームドラマなのだから当たり前で、メイスン、あるいはシングルマザーに感情移入がなされ、息子と母親の関係がひとまずの終着を見せるところで映画も一気に終わりへ近づく。

母親の涙によってそれまでの決して楽しいとは言えず、おもしろいとも言えないエピソードの選択の理由が明かされる。子供は忘れ、母は覚える。子供から見れば何がおもしろいのかわからないパーティー、ゆるいジョーク混じりの挨拶、安全管理、再婚につぐ再婚、恒例行事。子どもがくだらない、退屈と言ってしまいたくなるものを親は大事にしている。記憶の齟齬も生まれるだろう。やがて母親は同じ話しかしなくなるかもしれない。しかし、それは《しあわせな日々》だろう。ホームドラマの行き着く先は《しあわせな日々》。紋切り型のどこにでもある行事がその家族固有の記憶として残り、まわりには伝わらない内輪ネタとしていつまでも語れられる。映画、テレビ内のホームドラマはそれを脚色して普遍的な物語にする。

最後、自然のなかでもたらされる、瞬間の積み重ね、瞬間の重要性の再認というより初めての自覚。不覚にもラース・フォン・トリアーニンフォマニアック』でもニンフォマニアのジョー(シャルロット・ゲンズブール)が何もかもを失い、更生する鍵もなくして登った山で自然の偉大さを感じる。これまでいたずらに消費されてきたセックス、時間は山頂で孤独なまま斜めに立つ木の無時間性のなかで消え去り、それまで自分を痛めつづけてきた内向きのベクトルを外へ向かわせる。母親が涙したように過去の思い出すべき記憶は蘇らず、ワーニャ伯父さんと同じく《過ぎ去った日の思い出もない》。からっぽな自分には何も与えず、外のブルジョワ、裏組織に悪のレッテルを貼られた者たちに向かい、自分に対する復讐を他者へ加えていく。

ジョーの過激な半生を対話でセリグマンという童貞おじさんに語っていくという設定で、インテリ解釈、章立て、セックスシーンという流れ。示唆があって、おもしろいのだけど別に映画の中でやらなくてもいいし、それを物語と映像のなかに組み込んでいったほうが興味深かった。要はセリグマンがいらない。懺悔を聞く救済者からの転落なんて別に描かなくてもいいんじゃないか。セリグマンには救済者たろうとする偽善もなく、好奇心だけだったのに、それを性欲に改変してしまうのは…。セックスシーンはさして多くなく、日本版にはお決まりのモザイクがかかっていて、モザイクをかけさせた者の意図どおりまったく猥褻ではない。拍子抜け。ラース・フォン・トリアーはキレてもいいと思う。

幸福な幼年期から青年期、不幸なというより異様な幼年期から異様な青年期という凡庸な対比をしてもなんにもならない。

臨死体験ローマ皇帝クラウディウスの皇妃メッサリナと大淫婦バビロンが見えちゃうのはやり過ぎだと思ったが、それもご説明だったのだろう。崇高。《Boyhood》の瞬間瞬間を慈しむというナイーブな代物とは関係がない。その瞬間を慈しむという再認をしたのち、再び瞬間を取り逃がし、素晴らしい瞬間にふたたび再認する、ああこういう瞬間の積み重ねが幸せな人生を形づくるんだ… その反復から抜け出すことはなく死ぬ。オルタナ。素晴らしきかな、人生。瞬間ではなくイメージ。はい終わった、次のイメージ。

そんな人生に関わりがないジョーとセリグマンのいかにもフェミニスト好みの性のお話、「もしジョーが男だったらこの物語は凡庸だっただろう」「陳腐な紋切り型ね」ヤリチンかビッチか。どっちも大差なく、ジョーのいう通りだと思うが、その男と女を意識させる会話もラストへの伏線だったのかもしれない。中立者として話を聞いてきたセリグマンが男になってしまうところへの。フェミニストはほくそ笑む。セリグマンが童貞だということがバレてしまった時点で、観客へ恐怖として根づくセリグマンの欲望炸裂。ラース・フォン・トリアーの手練的終末。

 

【映画パンフレット】 6才のボクが、大人になるまで。BOYHOOD 監督 リチャード・リンクレイター キャスト パトリシア・アークエット、エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、イーサン・ホーク

NYMPHOMANIAC VOL 1 & VOL 2

素晴らしき放浪者

ジャン・ルノワール/水に救われたブーデュ

水から救われたブーデュは、本屋とその妻のあまりに親密な夢想が彼に次々とあてがう役を捨て、水によって救われる。人は生に到達するために演劇の外に出るが、水の流れにそって、すなわち時間の流れにそって、それと感じられないようにして出るのだ。時間が未来を得るのは、演劇から出ることによってである。そこから、この重要な問いが生まれる。どこから生は始まるのか。結晶の時間は二つの方向に分化するが、二つのうち一つは、結晶から出るかぎりで未来と自由をになう。そのとき現実的なものが、現働的なものと潜在的なもの、現在と過去の永遠の往復からのがれると同時に作り出されるのだ。 

         ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』第4章 時間の結晶 p121

ついに浮浪者になってしまった男は唯一の友である黒い犬を失い、パリを歩き回り、恩赦も受け取らず、セーヌへ身を投げようとするところを中流のブルジョア夫が望遠鏡で発見し、「素晴らしい浮浪者だ!」と訳のわからない言葉をのたまいながら走って助けにいく。不可解な出会い、水の中から救い出されたブーデュはアホみたいに頭を下げて感謝するでも、殺してくれればよかったのになどと幼稚なことも言わず、ただその場に居座る。《みんな、神さまの居候》。

ブーデュは「素晴らしい浮浪者」として拾われたが、家にいては浮浪することはできない。ベッドは居心地の悪い寝床であり、靴の磨き方など知るはずもない。やがて家人の誰からも嫌われ、追い出されかけるが、性的に枯れた夫の代わりに旺盛なブーデュに妻が身を任せることで延期され、宝クジの当選とともに下女との結婚が決まる。まさか自分が誰かの夫になるだなんて思いもしなかったブーデュは再び川に落ち、水に救われる形で放浪者に戻る。

婚礼の音楽。ヨハン・シュトラウスの《美しき青きドナウ》を奏でるヴァイオリン弾きたちの河岸をくだり、その下を流れる川、そのうえに浮かぶ船へ。カメラは外に出てようやく自在に美しく動き出す。セリーヌとジュリーは舟でゆく。フラン・オブライエンの《スウィム・トゥー・バーズにて》の小説内小説の登場人物たちのように与えられた役を抜け出て自由を得ること。

 

素晴らしき放浪者 [DVD]