全てが変わるために、何も変えてはならない(ヴァンダの部屋 / 何も変えてはならない)

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ポルトガルリスボンの外れ、アフリカ移民のゲットー、フォンタイーニャス地区。

三姉妹の次女? ヴァンダは暗い部屋の一室で激しく咳き込んでいる。骨と皮だけの身体が弾み、その弾みで吐瀉物が口から溢れる。アルミホイルの上にタウンページに隠してある白い粉を乗せ、ライターで炙ってパイプで吸い、つづいて煙草を吸う。煙草の煙で中和するように。その行為は何度も繰り返され、毎回激しく咳き込むことになる。

そして涙目のクロースアップ。カメラは一度も動かずたしかに存在しているが、誰もカメラを気にしていない。王兵の『三姉妹』ではカメラは子どもに付いて回り、激しくブレ、近づき、カメラ目線も存在したが、ペドロ・コスタのカメラは一度も動かず、そこにあるものをただ映している。編集されているのだろうが。

ヴァンダの狭く汚いベッドルームはタイトル通りこの映画の中心にあり、病んだ男、家をなくした幼馴染、友人、家族が集い、去っていく場所であり、ヴァンダがドラッグをキメ、眠る場所である。外に出るとき、それはキャベツを売り歩くときだけであとはほとんどこの部屋でアルミホイルを炙っている。その部屋がいずれ取り壊されるであろうことが、ブルドーザーのうるさい破壊音で伝えられる。幼馴染の黒人は何もせず、家にこもり、たまに片付け、注射針を腕に突き刺す。その部屋を彼は大事にしている。しかし、やはり取り壊されるときにそこにいるのがばれないようにドアと窓を閉め切り、ロウソクを立て、涙を浮かべて友人二人とこれからのことを話し合う。「さあ新しい船に乗り換えよう」

その黒人はいつのまにかヴァンダのいない間に部屋に入っている。ヴァンダはそのマナーのなさをたしなめる。女の部屋に挨拶もなく勝手に入り込むもんじゃない、と。それはいまのいままで守られてきたのだろうが、男にとってはそんな場合じゃなかったのだろう。

唐突に猫が登場し、ヴァンダが膝に乗せて毛を撫でている。

そしてその猫はジャンヌ・バリバールが歌う『何も変えてはならない』の中にも突然、出てくる。そしてもっと驚かせるのが日本人のおばさん二人がこちらを見つめている古い喫茶店。どこにでもいそうでものすごいパンチがあるおばさんが二人煙草をくゆらせているそのシーンはあまりにも唐突で忘れ難い。小津に向けられたものか。

35ミリフィルム、モノラル、マーシャルのVOX、喫茶店、モノクロ。

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懐古趣味と言われてしまうような使い方はされておらず、常にこのやり方でなければならない、『何も変えてはならない』とゴダールブレッソンから引いた言葉で繰り返す。

音楽はロック。ペギー・リーの『Johnny Guitar』 ニコラス・レイの『大砂塵』、ゴダールの映画史に引用された歌をジャンヌ・バリバールが歌う。

引きでギターのおっさんが独特なリズムの取り方をしているのは面白いといえば面白いがヴァンダの部屋』同様、クロースアップの美しさ、無名性はペドロ・コスタの固有名詞となっている。女優であり歌手であり母親であるジャンヌ・バリバールの顔、特に横顔。

オペラ歌曲の練習では講師のおばさんに何度も中断され、いらいらしているのが伝わってくる。「すごい努力して高音域が出るようになったんだから」「あと一小節よ」とおばさんが鼓舞するが、バリバールは欠伸をし、終わった途端、昼食のことを気にする、散漫ぶり。そんなに頑張って声帯を拡張したのに煙草はやめない。強固なスタイルはストイックなリズム練習にも現れる。しかし、やっていることやどこか既聴感のある音楽よりも彼女の顔が語っており、靄にかかった仄白い光が射すとマリア・カラスやディートリッヒ、果ては岩窟の聖母にまで遡り、笑顔はそんな簡単に見られるものではない希少さを感じさせる。

ペドロ・コスタの撮る女性は外に拮抗する強さを持とうとする。男性はその周りに佇んでいるだけ。アンチエイジングや女性性の理想化、向上といったイメージ操作とは無縁な人々は理不尽不条理そのままの外への対応のしかたを思考している。逆に操作される人々は無防備にふるまい、無為無常だといって大事なものを失い、変えてしまう。大事なものを守る道を進んでいても何かは失われるが、それは大事なものではないと選択したものであり、無知ではない。

 

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ヴァンダの部屋 [DVD]

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