熊切和嘉『夏の終り』

満島ひかりの細く長い指。特に長い。

かつて繋がれた手とまどろみのなか繋がれた手と解かれた手。

男は成瀬と同じくどうでもいい存在であり、それは俳優2人によってよく抑制されている。

かといって女が素晴らしいとか母性押し出しでもなく、女から見てもこの女は眉をひそめられる。

そしてそんなことは関係ないとばかりに他の登場人物は存在しないようなもので、知子が最も憎む存在である妻は電話の声だけ。

電話というものはいつの時代も厄介なもので、いきなり時間の流れを断ち、間の悪い女中のように邪魔をする。会話をするうえで重要な顔が見えず、何を言ってもいいような、理性のせめぎ合いが起きる。満島ひかりの逡巡、メモをとるかとるまいか、何もかもをぶちまけてしまおうか、愛人のために大人しくしていようか、そんな思いがペンを持つ手と震える「はい」に出る。

過去の挿入は突然行なわれ、物語の進行を停滞させている。回想するでもなく、フラッシュバックするでもなくなぜか過去の描写だけが説明的になる。現在の助けにはならず、説明にしかなっていない。知子へのビンタだとか「女のくせに」だとか選挙応援の出会いとか酒場での出会いとか心中の持ちかけだとか、過去のエピソードがことごとく痛々しいせいもある。

この映画を見る理由としてはジム・オルークの音楽が中心にあったのだが、映画音楽をつくるのはあまり興味がない、とかつて語っていたジム・オルークはあくまで控え目に音楽を添え、酒場で流れる軽妙なイージーリスニング風の曲までつくっている。知子が藍染めにむかって赤いペンキを叩きつける前に現れる風景に流れる低音と太鼓?は山手の夜をさらに深くするような緊張感を与え、《息苦しいのよ》という強い言葉で孤独を増す。はやく新作を出してほしい。

瀬戸内寂聴原作だからとか、飽き飽きの三角関係だからとか、だらしのないやつらばっかりだからとか、そういった理由で物語がどうでもよくなってしまうのではなく、最初の満島ひかりの登場のせい。コロッケを買ってきて、笑顔を見せ、包みをあけたかと思うとすぐに口に入れてあまりの熱さに口を抑え、また笑い、立ち食いをし、愛人の男にたしなめられ《だって》と拗ねた顔をする。それだけで十分。

愛人の愛人である綾野剛は《そんなの愛じゃない。ヒューマニティだ》とわけのわからぬことを言って襲いかかるだけだし、小説家は太宰の読みすぎ。そんな男たちとは関係がなくてもよいのに、関係をもってしまうところはしかたがない。このしかたがない部分が最初の登場ののちに描かれるわけだから、あとはジム・オルークの音楽と満島ひかりの細い腕と手と足と情動、そして《ファッツァー》で激しいスタッカートによって言葉をぶったぎった安部聡子の憎悪の滲む優越の笑いを待つのみ。

 

夏の終り [DVD]

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