熱波/風立ちぬ/SARU

メロドラマ と おとぎ話。

ポルトガルーブラジルーアフリカー日本。湿潤温帯から亜熱帯へと移行した日本でセンチメンタル=メロドラマを見て涼しい気分になった。暑苦しいはずの鬱蒼とした木々には風がさほど当たらず、虫の音のリフレインは鰐の生け簀に落ちる水と同じくチルアウトに聞こえる。それは鬱陶しい人間たちのくだらない会話が聞こえないからだろうか。後ろに座っていた爺さんは音が出てないじゃないかと不平を漏らしていたが。

メロドラマにオールディーズ。結婚生活、仕事によってはなればなれになった不倫男女がそれぞれ同じ曲「Be my baby」に涙をのせる。女は退屈な部屋の一室でレコードプレーヤーから流れてくるそれを聴きながら、男はドラムを叩いてコーラスを歌いながら。金井美恵子はここの女に『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナと相似したものを見たらしいが、それには同意できない。アウロラの涙の対象はどうしても男女の色恋から発する感情に限定されてしまい、涙は自然発生的なものだ。紋切り型にはまりすぎており、しかもそれを「Be My baby」という誰もが聴いたことのあるオールディーズでがちがちに固めている。私は笑った。原題は『Tabu』で、その字義通りの展開があるのみ。

それでもオートバイがミニカーのような速度で画面外に消えて行く、鰐を見つめる二人のうえで揺れる水面の反射光、熱い蚊帳の中で交わる男と女、メロドラマの枠から逸れた『熱波』のイメージ群を見ることもできる。それだけで十分だったが、第一部はナレーションのためといってもよいくらい都合の良さが目立った。ナレーションの必要性はさほど感じられず、より凡庸なメロドラマ仕立てが強調され、人物描写までやってイメージを限定させてしまっており、残念だった。メロドラマを批判してただのイメージを提出するという姿勢ではなく、ムルナウのメロドラマの枠を借用した現代版といった形か。それではシネフィルが喜ぶばかりで、つまらない。

『風立ちぬ』は戦時下の日本という、よりデリケートで身近な背景をもっているがメロドラマを援用しない。二次元的なのっぺりとした退屈な平面はなくなり、立体的な雲や木々、光が言葉少なな二郎に寄り添い、色彩豊かに出入りを繰り返す。外から話を聴いていると何度も見聞きしたメロドラマであるかのようだが、実際に映画を見ていると最初からまったく別物であることがわかる。夢がたち現れては消え、残り、意志とは無関係なように身体が動き、菜穂子と再会し、愛し、菜穂子の死を迎える。自然に流れるように進む生だけがあり、単純な言葉の連なる告白の場面から何度も涙がこぼれる。『ライフ・アクアティック』の偽息子の死体を海の中で抱いて叫ぶビル・マーレイ、『忘れられた洞窟壁画』の白い鰐の出現、『シュトロツェク』の頭を抱える絶望的な姿・・・物語が孕む嘘が希薄化され、『ラブ・ストリームス』のように自然に溢れ、流れる愛と生が涙を生む。動物たちを笑いながら抱きしめる女、倒れた女を疲労とともに抱きかかえる男、煙草を吸うために手を離そうとする二郎を戒め、煙を受け容れる菜穂子、1日を大切に生きるという言葉通り、生きる意志。ナイーブに見えるのは菜穂子の死のせいだろう。愛する者の死は死者からの「生きて」という言葉で語られるのみで、他にはなく、お涙頂戴のシーンはなく、退屈でありふれたメロドラマではない。

飛行機に沿って上昇して行く画面の奥に見える真っ白の入道雲や夢の中で斜めに入る緑の光線、泉のきらめき、実体をもつ風がもたらす出会い、再会。五十嵐大介の『SARU』の歌い手は『風に実体がないなんて、一生部屋の中でマスかいて死んでく奴らの言う事さ』と言い放つ。『風の歌を聞く』のではなく風とともにあることを知ること。『風立ちぬ』の中で吹く風は、実体をもった風だろう。風に良いも悪いもなく、地震の際に地響きとともに恐怖をもたらす低音の風も、帽子を飛ばした風も、自然のままに流れていく。『風立ちぬ』の物語の時間は一直線ではなく、夢や死とともに徐々に時間をなくしてぐるぐると回り、飛ぶような時間を生む。

何ものも美化せず、蹴落とさない、美しいおとぎ話。

SARU 上 (IKKI COMIX)

SARU 上 (IKKI COMIX)

SARU 下 (IKKI COMIX)

SARU 下 (IKKI COMIX)