マルタ / スタッキング可能 / ツァラトゥストラ

たえがたいイメージがまた一つ。

暗鬱な音楽や映画、それらの暗く湿った感傷的なイメージは個々の観客がもつ、ある程度共有された悲しみや痛みなどといったものに寄り添い、くっつく。そしてどうなるか、それまで個人のモノだったイメージにその映画や音楽が結びつけられて、別のものになる。映画や音楽でそんなふうに異化されて消えてなくなるか、真逆の好ましいイメージに変貌するかするなら問題はないように思われる。「元気になれる」「癒される」といったうたい文句と同じようなものだ、大多数の人々がそう思うのだからその商品にはある程度そのようなイメージが含まれているのだろう、嘘か本当かなんてそんなことはどうでもいいのだ。

そうして悪いイメージを克服し、元気になれればそれにこしたことはない。しかし、しつこい無意識というやつは執拗に顔を出す。何かトラウマのようなものをもち、人におずおずと話し、聞いた者は話し手にどこか不審な点があるとその繋がりを指摘する「それはあれだ」。そしてトラウマは倍加される。

「マルタ」の物語は強い男と弱い女という古来からつづく性差別や権力による習慣化の過程、自我の崩壊による盲目など、DVに限ったものではなかったが、実際にまわりにそのような経験をもつ者がいることを知るとそれが極めて現実的な物語であることがわかる。なぜこのような男たちが生まれてしまうのか。マルタに限れば偽善的な賛美歌、意味不明の用語が並ぶマニュアル、出来合いのスペクタクル、金と権力ですぐに思い通りになる女といったところで、そこから発生した男はおおかた周りからの評判がよく、仕事もうまくいっており、金もある。しかし裏では妻をなぐり、噛み付き、命令し、怒鳴り、いなくなってまた現れる。

マルタが拷問を受けるシーンは受け容れ難い。髪を振り乱し、絶叫するように泣きわめきながら謝罪する、引きつった笑顔で男を迎え、拷問をうけるべく顔を下げおずおずと男の後ろへくっついて階段を上がって行く。このイメージをマルタ自身は消化できなかった。時間による忘却か、別の男による上塗りか。


もしそこで「分人」といったまがいものが薦められれば、彼女は嬉々として飛びついてしまうかもしれない。『シークレットサンシャイン』で消沈した女が宗教に手を出してしまったように・・・

個人ではなく分人。相手によって違う自分が何人もいてそのすべてが「私」である、その相手によってころころと変わる「私」をそれぞれひとつの分人とみなすこと。好きな相手であれば分人1、職場では分人2、嫌いな相手には分人3、それらすべて「私」。この場面場面による道化的キャラ使い分けを分人という言葉に置き換えて肯定、「これも私なんだ」と思い込んでみる。「本当の自分」がわからない人々、「自分探し」に明け暮れる人々のための分人なんだろうが、結局、分人と分人の間に好き嫌いが生じるだろう(分人1はいいけど分人2はちょっと・・・でも分人はぜんぶ私だから・・・)、そのジレンマとともに嫌悪感が募ればその分人は殺される(やっぱりこれは私じゃない)。こんな安易な思い込みはすぐに崩れ去る。分人という言葉を使うくらいで自己を肯定できるならそれにこしたことはないが、すぐに否定に逆戻りするだろう。結局相手によって自分のやり方を変えていることには変わりないのだ。分人はこの相手によってやり方を変える自分を肯定するための思い込みなのだが、そうなるとより多くの人々に合わせて数多くの分人を産みだせた者が個性豊かな者、ということになる。この分人は結局自分のことしか語っていない、自分にしか興味をもっていない。相手に合わせて分人を、というがそれは便宜上であり、円満な社会生活を「私」が「本当の私」のままおくることができるようにするために、分人で済ませるということでしかない。他者はいくら分人と言われたって不審、不信との眼差しをやめない。だいたいが相手にされる者からしてみれば分人もくそも関係ないのだから、それが本当なのか嘘なのか演技なのか素なのか区別してわかりたいと思うのが常である。
 
著者は「関係性」という言葉を忘れてしまったのだろうか?一人と一人の関係性は唯一無二のものであり、それは好悪にも興味の有無にも関わらず、「私」と他者が共有するものである。分人はその関係性よりも相手に相対する「私」について思いめぐらせる思い込みであり、そんな思い込みをしていることを他者は知る由もない。より親密な関係になればより多くの分人に出会えるのだろうか?ロールプレイングゲームでもあるまいし。

自己啓発本や宗教関係の本が売れに売れる本国ではこの分人も広がってしまうのかもしれない。朝日新聞が取り上げ、大衆にも広まる。大衆向きの概念という名の思い込み。

こんな分人という糞みたいな思い込みに頼らないといけないぐらい辛いのか、おそらくはその苦痛からこんな糞のついた藁にもすがってしまうのだろう。上司やクライアントにぺこぺこしている自分、嫌いな相手にも愛想をふりまく自分、松田青子の『スタッキング可能』の中にはそんな人間たちがいる、誰一人として肯定的には描かれておらず、視点が変わる度に誰かにディすられ、ディスっている。本谷有希子みたいに胸糞悪い気分にさせるまでにはいたらず、あくまでも軽く、どこか笑えるのは何故か。確実に痛いところを突いてくるが、結論はなく、物語は短い。しかし、関係性と視点がある。どこかで誰かに見られている、監視社会などと名づけられ、恐怖と嫌悪の対象になった社会内に存在する隠れた無数の視点は『スタッキング可能』の中では抽象化された登場人物に与えられ、物語で繋がり、視点で戦いが発生する。現代社会の大企業で働く登場人物たちはどこか自家撞着的ではあるが、書き手はクールに彼・彼女らを突き放し、視点を交じらわせる。どんなに冷めて、関係がないようにみえる乾ききった場所にでも関係性は必ず存在する。登場人物のうちの誰かは必死に自分の牙城、「本当の自分」を守るべく内側で思考を巡らすが、好きでもない同期の女の写真を指差して敗退し、また壁を高くする。「人間失格」の主人公に似た道化を演じている気分に浸っている男だろう。その道化の失敗を分人で認めろ、ということなのだろうが、彼にはそれはできないだろう。表と裏の棲み分け(「家の私」と「職場の私」)それがうまくいけば気持ちよく生活することができるだろう、これが分人の依るところだが、単純に利己的であり、後期資本主義を生き抜くためのサバイバル術といったところか。そんな思い込みで周りを無視して自家撞着的解決を図るくらいなら素直に逃げ出したほうがましだ。分人で解決してしまうくらいなら逃げ出すまでもないのだろうが、自己啓発本がすぐにブックオフに並ぶようにいずれその解決法も廃れる。



みなカフカの読み過ぎなのだろうか。しっかり思考して自分の立場を主張すればするほど自分の首を絞めてしまう、審判のKのようにはなりたくない。ゴダールは盟友だったトリュフォーと仲違いし、アンナ・カリーナとも別れ、二人を求めてゴランと闘争し、ミエヴィルと三たび映画を撮り始める。孤独を押し進め、他者を求め、関係性を求めつづけた結果、後期の美しい映画がうまれる。利権がらみで横やりを入れてくるやつから逃げてスイスの山奥に引っ込み、それでも関係性を失わずに。

一人でいるなら独りで考えることができる、間違いは多い。分人は間違い。二人を求めることができる。
二人でいれば二人で考えることができる。それは困難な作業だが、失敗はなく、成功しかない、が、一人に戻ることがある。
ツァラトゥストラの情動。

「本当の私」は一人の問題でしかない。その解決を図るために一人用の性玩具をもってきても仕方があるまい。いつまでたっても一人、二人でいても一人なんていう悲しい状態が生まれる(『トゥー・ラバーズ』のホアキンフェニックスの顔 参照)
ヴァーチャル、現実世界そのどちらにおいても「本当の私」は私のなかにはなく、他者の存在する社会のなかで生きる人間たちの「本当の私」は他者との関係性のなかにしかない。分人のなかで一つ否定されないところはこの部分だけである。そしてその関係性が社会の塵芥をうけて傷つき、こじれ、引きこもり、断絶し、たかとおもいきやネットでは繋がるから結局他者はどこにでもいる。南の島で自給自足がはやるのもうなずける。



ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)


スタッキング可能

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