ワット/マーフィー/モロイ

f:id:WATT5:20131214124933j:plain

ノーベル賞作家といっても文学に興味のない人たちにはほとんど読まれないベケット。文庫化されていないし単行本でも書店の影にひっそり、あるいは置かれていないこともその要因かもしれない。不条理どうのこうの、という言質が流行った時期(雑誌やネットなんかでよく「不条理」という言葉を見ただけかもしれないが)そんな時期にも見向きもされなかったベケット。カミュやカフカはいつになってもちょくちょく出てくるのになかなか顔を出さない。なぜか。

物語がない、せいだと思う。著作を読んだものからしてみれば一応物語らしきものはあると感じるのだが、それを他人に伝えることはできない。 「ワット」や「マーフィー」は衒学的で読みにくい箇所もあったが、基本的に平易な文章で綴られている。しかし、読み進めるのはなかなか骨が折れるらしい。ベケットの文章は違和感を覚えさせる。

平易なのに読みにくい。言葉の一つ一つが私たちの日常における使い方とは異なる使い方で綴られている。ドゥルーズは「マイナー」という概念を使ってベケットの文章を読解した。普通の小説のなかでもベケットのそれは書かれる言葉への意識が明らかに高度だ。小説家ならば言葉を意識するのは当然だが、そんな次元ではない。ベケットの小説では言葉とともにあるすべての存在が試されている。無駄な言葉は削ぎ落とされ、物語も当然なくなっていく。「モロイ」では『物語、物語。私はそれを話す術を知らなかった。今度の物語もきっと話せないだろう』なんてことを言っている。ジェームズ&エリザベス・ノウルソンの「サミュエル・ベケット証言録」ではフォンターネの「エフィ・ブリースト」(正統派の小説?)を書きたかった、という吐露も見られる。ベケットが物語性の強い小説を書いていれば、おそらくもっと広く読まれていただろう。しかし、そうすることができなかったベケットは言葉が書かれた途端、口から出た途端に言葉でなくなる、そんな極限の状態を書いた。

思ってもいないこと、嘘に近いことを口にしてしまったときにその言葉が自分のものでないような、自己嫌悪が激しくなってしまうどうしようもない瞬間を経験… その瞬間はすべての言葉に纏いついていて、それにヒトが気づいていないふりをしているだけである。本当は言葉を口にした瞬間にいつもそんな気分に陥ってしまうのが自然である。突飛なように思える。その発された言葉は決して相手に正確に伝わるものではないし、自分の意図した言葉ではない。そんな前提のもとで言葉が出てくるならまだマシだ。「これがまさに自分の言葉で、確実に相手に理解されている」そんなふうにして言葉を使っていても独りよがりでしかない。存在自体が嘘であり、言葉は空気を震わせる前から嘘だとわかりきっている。

ベケットはそんな人には興味がなかった。そんな人の嘘の塗り重ねをするわかりやすくて気持ちのいい言葉にはまったく聞く耳を持たなかった。

そして小説三部作「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」が書かれた。名づけえぬものではえんえんと肯定と否定が行なわれ、なにが言いたいだとか誰が何をどこで言ったことはさっぱりわからない。言葉が現れては消える、そんな過程を黙って見ることになる。


ワット

ワット

マーフィー

マーフィー

モロイ

モロイ