6才のボクが、大人になるまで / ニンフォマニアック

Boyhood/リンクレイター

コールドプレイの《Yellow》で始まり、ポップス、オルタナが続く。Wilco,Yo la tengoには思い入れがあるようで。

12年の歳月をかけて撮影するとなるとその間にいろんな出来事がある。出演者が生きているか、アル中になってしまうかも、病んでしまうかも、出資した会社が潰れてしまうかもなどなど不安もあったが、完成したホームドラマ。観客は安心して見ていられる。映画というのはその点でテレビと変わりないし、ビデオ・DVDが普及してからは尚一層テレビに近づく。その中で何かを見せなければならないという制約が映画を古典的にする。そんな映画にさらにPGうんたらと年齢制限をかけるなんてバカな真似までなされる。CGはどうか。もはやカメラも必要ない。俳優は緑色の幕の前で紐につられ、格闘する。これは映画ではない、そう言いたくなる気持ちはわかる。フィルムからデジタルに移行したとしてもカメラで撮り、編集し、観客に見せるという行為は変わらない。金はそこにCGをもってきて映像を装飾し、より迫真的に、ドラマティックに、面白おかしいものに変えさせる。物語は小説に任せておけばいい、と言ったのはゴダールだったか、しかし映画にも単純でわかりやすく感情移入のできて泣けて笑える物語が要請されつづけている。そういうものを見ているとなんとも平和な気分になってくる。今作も例外ではない。

妹のサマンサだったか、ぷっくり唇が弟に口汚く接する。イーサン・ホークは完全にやんちゃなおっさん化し、たまに子どもに会う優しくてちょっと変でおもしろいパパという美味しいとこどり。母親は男を見る目がなく、失敗をつづける。心理学なんかやってるとそういうことになる。類型で見ていってもアル中かどうかぐらいわかりそうなものを。娘はそんな事態を招いた母にキレ、母も逆ギレ。どう考えても母がよろしくないのだが、シングルマザーは辛い。とばっちりを食らうのはいつも子ども。家族。

シャンプーのCMかテイラー・スウィフトのPVに出てきそうなハイスクールガールと恋に落ちたメイスン。キスシーンでYo la tengo《I'll be around》。しかしあまり印象には残らない。フィルムで撮ったらしいが、デジタル処理がなされているのだろう、薄っぺら。それは『ビフォア・ミッドナイト』におけるギリシャの観光地映像にも言える。『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』はもちろん寄りの問題もあるだろうが、生々しさがあって、夜があり、キスシーンもお決まりの流れからは外れていた。スパイク・ジョーンズの『her』と同じく、ブレのない流れるようなカメラワーク、デジタル処理でノイズを失った映像、整った構図、モデルルームのような内装、セットのような外観の薄っぺらな映像だらけで、退屈。それがリアリティか? そんなのはテレビのリアリティであり、映画はそこにやすやすと加担してはいけない。安易で薄っぺらなドキュメンタリーのようなリアリティ作成。

感動的なのはホームドラマなのだから当たり前で、メイスン、あるいはシングルマザーに感情移入がなされ、息子と母親の関係がひとまずの終着を見せるところで映画も一気に終わりへ近づく。

母親の涙によってそれまでの決して楽しいとは言えず、おもしろいとも言えないエピソードの選択の理由が明かされる。子供は忘れ、母は覚える。子供から見れば何がおもしろいのかわからないパーティー、ゆるいジョーク混じりの挨拶、安全管理、再婚につぐ再婚、恒例行事。子どもがくだらない、退屈と言ってしまいたくなるものを親は大事にしている。記憶の齟齬も生まれるだろう。やがて母親は同じ話しかしなくなるかもしれない。しかし、それは《しあわせな日々》だろう。ホームドラマの行き着く先は《しあわせな日々》。紋切り型のどこにでもある行事がその家族固有の記憶として残り、まわりには伝わらない内輪ネタとしていつまでも語れられる。映画、テレビ内のホームドラマはそれを脚色して普遍的な物語にする。

最後、自然のなかでもたらされる、瞬間の積み重ね、瞬間の重要性の再認というより初めての自覚。不覚にもラース・フォン・トリアーニンフォマニアック』でもニンフォマニアのジョー(シャルロット・ゲンズブール)が何もかもを失い、更生する鍵もなくして登った山で自然の偉大さを感じる。これまでいたずらに消費されてきたセックス、時間は山頂で孤独なまま斜めに立つ木の無時間性のなかで消え去り、それまで自分を痛めつづけてきた内向きのベクトルを外へ向かわせる。母親が涙したように過去の思い出すべき記憶は蘇らず、ワーニャ伯父さんと同じく《過ぎ去った日の思い出もない》。からっぽな自分には何も与えず、外のブルジョワ、裏組織に悪のレッテルを貼られた者たちに向かい、自分に対する復讐を他者へ加えていく。

ジョーの過激な半生を対話でセリグマンという童貞おじさんに語っていくという設定で、インテリ解釈、章立て、セックスシーンという流れ。示唆があって、おもしろいのだけど別に映画の中でやらなくてもいいし、それを物語と映像のなかに組み込んでいったほうが興味深かった。要はセリグマンがいらない。懺悔を聞く救済者からの転落なんて別に描かなくてもいいんじゃないか。セリグマンには救済者たろうとする偽善もなく、好奇心だけだったのに、それを性欲に改変してしまうのは…。セックスシーンはさして多くなく、日本版にはお決まりのモザイクがかかっていて、モザイクをかけさせた者の意図どおりまったく猥褻ではない。拍子抜け。ラース・フォン・トリアーはキレてもいいと思う。

幸福な幼年期から青年期、不幸なというより異様な幼年期から異様な青年期という凡庸な対比をしてもなんにもならない。

臨死体験ローマ皇帝クラウディウスの皇妃メッサリナと大淫婦バビロンが見えちゃうのはやり過ぎだと思ったが、それもご説明だったのだろう。崇高。《Boyhood》の瞬間瞬間を慈しむというナイーブな代物とは関係がない。その瞬間を慈しむという再認をしたのち、再び瞬間を取り逃がし、素晴らしい瞬間にふたたび再認する、ああこういう瞬間の積み重ねが幸せな人生を形づくるんだ… その反復から抜け出すことはなく死ぬ。オルタナ。素晴らしきかな、人生。瞬間ではなくイメージ。はい終わった、次のイメージ。

そんな人生に関わりがないジョーとセリグマンのいかにもフェミニスト好みの性のお話、「もしジョーが男だったらこの物語は凡庸だっただろう」「陳腐な紋切り型ね」ヤリチンかビッチか。どっちも大差なく、ジョーのいう通りだと思うが、その男と女を意識させる会話もラストへの伏線だったのかもしれない。中立者として話を聞いてきたセリグマンが男になってしまうところへの。フェミニストはほくそ笑む。セリグマンが童貞だということがバレてしまった時点で、観客へ恐怖として根づくセリグマンの欲望炸裂。ラース・フォン・トリアーの手練的終末。

 

【映画パンフレット】 6才のボクが、大人になるまで。BOYHOOD 監督 リチャード・リンクレイター キャスト パトリシア・アークエット、エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、イーサン・ホーク

NYMPHOMANIAC VOL 1 & VOL 2