2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

ワン・ビン『収容病棟』

瘋愛。'Til Madness do us part。

行き場のない収容者たちのそれでもまだつづく物語。

どこに行っても物語はつづく。

その場所、時、理由といった説明は物語を見るうえで必要な要素ではなく、邪推を引き起こす。収容所を映すカメラが暗転して最後に与えられる。

激昂による家庭内暴力で収容され妻と息子に見舞いにこられる者

下の階にいる女と互いの顔が見えるコーナーで愛をささやきあう者

運動不足解消のためか収容所の廊下を何周も走り回る者

絶妙なポジションを探すべく何度も似た動きを繰り返す者

祈りを捧げる者

冷水のバケツシャワーを浴び、歩き回り、友人のベッドに入り込む者

あたたかみを求めて同じベッドで眠る者

いなくなった友人を惜しんで泣く者

二本の煙草を満足げな顔で吸いきる者

見舞いにきた娘と話し、涙を流す者

帰宅し、寡黙なまま家を出、道を歩き続ける者

社会から爪弾かれ、収容所、隔離病棟、精神病院、いろいろな名前をつけられそうな閉鎖病棟のなかへ閉じ込められた彼らには、しかしながら家に帰ることができる可能性は残されており、社会と荒野の真ん中にいる。

各人に名前もしくは呼び名が与えられ、それは死んでからもつづく。観客は各人の飲食、排泄、睡眠を見ることになる。ある対話の中ではここに入れられたことを冷静に現実を見つめる目があり、こんなところにいれば誰だっておかしくなる、無責任な奴らが無責任におれらをぶちこんだ、と言う。トイレは存在するが使うものは少なく、ベッド下に置かれた洗面器や廊下に小便を落とす者が多く、「責任能力」といった社会的な用語が浮かんでくる。排泄する場所をわきまえ、その場所で排泄することができるか否か。社会から責任能力なし、暴行者、思想犯、過度の信仰をもつ者、狂人の烙印を押された者たちがごたまぜに閉鎖空間のなかへ収容され、まともに社会復帰できるのか。そもそも社会復帰を目的としたものではなく、収容が目的となった場所で。

一人、帰宅を許された寡黙な男が母に連れられて家に帰るところで一気に画面が拓ける。閉鎖病棟から外へ出ただけで緊張が薄まり、眠くなる。男は黙したまま家で過ごし、旅行ガイド(地図)を読み、テレビを一瞥し、外へ出、荒野を歩き続ける。悪夢のような閉鎖病棟からようやく外に出られたのにまた空虚な家のなかに閉じ込められてはかなわない。外の奴らは無責任にも、10日間様子見してまた病棟に戻すかどうか決める、なんかやらかしたらまた病棟に戻すよ! なんて言っていることだし。画面の右寄りで男が先へ歩みを進める。一定のリズムでそこそこの速さで、カットが繋がれ、あるいは目が覚めて、いつのまにか夜。カメラが止まり、男は歩きつづける、それだけの映像がなぜか残る。昨日、観た「キャンディ・マウンテン」の適度にカットが切り替わり、移動はほとんど車だったロードムービーにはなく「ニーチェの馬」で家を出て井戸まで向うじいさんの足取りにあるようなもの。車で移動するよりも歩く移動で、距離は稼げないが一歩一歩の身体感覚で得られる距離感、徐々に過ぎていく時間。

時間の進み方は外と明らかに異なっている。その場所にはその場所の時間の流れ方があり、それは個人差こそあれ、時計、タイムキーパー、スケジュールによって決められ、それに沿った行動が求められる。大半は自由な時間を過ごせる収容者は自らのやるべきことを知っているのか、壁に小便を這わせ、それをタオルで拭い、そのタオルを枕元に置いて眠ろうとする。いつもは元気に動き、笑っているその男がベッドの下で両足を投げ出して何か嫌なことを思い出しているような緊張した顔で座っている。まわりの者がどうした、注射のせいか、と聴き、別の者がいや、昨日か一昨日か誰かに殴られたからだろう、と答える。それではこの男はそれからずっとこうして、座り、立ち上がり、膝を曲げ、靴を触り、また同じ場所に尻を下ろす行為をつづけているのだろうか。それとも今、殴られたことを思い出しているのだろうか。夜になり、彼はベッドの中央に腰掛け、両足を投げ出し、右に横になり、再び上半身を起こし、左に横になり、適当な位置を見つけようと何度もその行為を繰り返す。彼はなにかを探している。

ぼくは恋がしたい。君は恋がしたい。彼も右に同じ。わたしたちは、君たちは、彼らもやっぱり恋に落ちたい。(ヴィアン「うたかたの日々」) 

 そういう人間もいる。肉のあたたかみを求めて、麗しき過去の感触を思い返すべく、男2人で抱き合う者もいる。何年間話しつづけてきたのかわからないが、3階の男と2階の女が抱きしめたい、と言い合い、女が階段を登って柵の前に立ち、男はその女を抱きしめて本当に嬉しそうに笑う。

広がる空間を狭めるのは人間、閉鎖された空間で人と人を引き離すのも人間、自然が人間を引き離すのではなく、人間が人間を引き離す。はなればなれに。

閉鎖された空間、変わりのない空間のなかで人々はそれぞれのやり方でどんどんと内側にこもっていく。外がなければ内へ。それは自然な出来事であり、行き過ぎると周りとの境界が見えなくなる。その境界を保つのが他者との接触であり、会話であって、彼らの多くが他者と接触を持つ。ごく自然に、あっけらかんと、楽しそうに触れ合う二人はそうやって自らの境界を広げていく。一方、他者を見つめはするが、話さず、床にへたりこんでいる頬のこけた眼光鋭い男は最後、一人ベッドのなかでようやく微笑らしきものを見せる。二本の煙草を持ち、こっそりと吸い、もう根元まできているのにまだ吸い、名残惜しそうに吸いきる。《3(5?)分間の一服》、ブレヒト「ファッツァー」ではそこで風景が開け、思考が進むが、ここではただ安楽のための一服。煙草の存在理由。

 

見捨てられ、閉じ込められた周縁の人々の一人一人を掬い上げる、それは「三姉妹」でもそうだし、「無言歌」でもそうだし、ドキュメンタリーであっても劇映画であってもワン・ビンは常にその姿勢を崩さない。そしてそれを収容されている彼らが求めてはいないにせよ、それを観る誰かは求め、記憶し、忘れない。

 

映画『収容病棟』予告編 - YouTube

 

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)