2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

地点『桜の園』

チェーホフ四大戯曲の一つ「桜の園」の再演。

登場人物はラネーフスカヤ(安部聡子)、アーニャ(河野早紀)、ワーリャ(窪田史恵)、ガーエフ(石田大)、ロパーヒン(小林洋平)、トロフィーモフ(ペーチャ - 小河原康二)。神西清訳の人物紹介の最初から六人が選択された。小間使いのドゥニーシャや《二十二の不幸せ》のエピホードフはいない。

開演前からロパーヒンとトロフィーモフは舞台に上がり、ロパーヒンは一円玉で囲われた桜の園の縁をぐるぐると歩きまわり、トロフィーモフは椅子に座って本を読んでいる。そこにラネーフスカヤ、アーニャ、ワーリャ、ガーエフの四人が不気味な卑しい笑い方で登場し、中央の積み上げられたフレームの残骸の上に陣取る。四人にはそのフレーム、写真や絵画、画面の典型であり、時間の経過したもの、過去を想起させる四角い枠が宛てがわれる。まだ若く、桜の園に未練のないアーニャは枠外の上から支えもち、その枠内にはラネーフスカヤ、ワーリャ、ガーエフの三人が入り、ワーリャが時折ロパーヒンの元へ歩いていく動作以外は動き回らず、その場でしゃべりつづける。「かもめ」よりは明るく「ファッツァー」よりは暗い照明は枠内の三人を照らす。

まず目につくのはラネーフスカヤの《崩壊》した様、その痛々しさ。躁鬱。躁のときは裸足の足を廃材に打ちつけながら声音高くしゃべり、鬱のときは庭に死んだ母の亡霊を見、死んだ息子のことを思い出す。生まれたときからの長く美しい過去は金遣いの荒いどうしようもない男に嫁いで金をなくして息子のグリーシャが川で溺れ死に、どうしようもない男に捨てられ、文字通り《崩壊》の一途を辿り、美しい過去の象徴であった桜の園までが差し押さえられようとしている、というのに、ロパーヒンの現実的な提案(別荘地として貸し出せ)もろくに聞かず、しがみつく。劇中、何度か口にされる《わたしの胸や肩に下がる重石》は息子の死から現在までの悲劇をさすのだろうが、美しい庭とともにあった《清らかな時代》もまた《重石》となっている。ウディ・アレンの「ブルージャスミン」の奥さんと同じく金がなくなっても金持ち生活が抜けずに麗しき過去を夢見る… 脇汗化粧だらだらのジャスミンと違ってラネーフスカヤに俗悪さ醜悪さがないのはそこ、現在にエゴが見えずもぬけの殻になっているように見えるからか。

そして最もコミカル、滑稽なガーエフ。おしゃべりで一席ぶちたがるガーエフは競売に出される桜の園を守る金を得られるだろうといいかげんな嘘をつく。周りから、しゃべりだすと無駄なことばかり、黙ってろと言われれば自分の悪癖を認め、おしゃべりを止めて大好きなビリヤードのことを考え「黄玉は隅へ、空クッションで真ん中へ」「トゥークッションで真ん中へ」と空想ゲームをして気を休めるが、悪癖は治らず。

ラネーフスカヤと近しい空疎な目でまわりを眺めるワーニャは自我、個といったものがなさそうな態度、話をし、結婚が噂されるロパーヒンともろくに話をしない。ワーニャがロパーヒンと結婚をすれば金にも困らず、桜の園も自らのものとなるのに、ラネーフスカヤ、ガーエフとともに現実には動こうとしない。

思考を行なう《万年大学生》と揶揄されるペーチャは立ち上がり、梯子に足をかけ、本を読みながら時折顔を上げて声を上げる。農家出身で親父に叩かれつづけてきたロパーヒンとペーチャは身の上のうえで対極にある。ペーチャはインテリを批判し、労働者の酷い労働環境を嘆く。そして考え方を同じくし《恋愛を超越している》間柄であるアーニャと前進することを叫ぶ。

ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は広大で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ(略)ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱をかこったり、ウォッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、ーーそれは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。

とアーニャに語り、幸福の予感を伝えるが、舞台では二人の距離は始まりから終わりまでいっこうに変化せず、恋仲にあることさえ意識されず、ペーチャの語りかけは《オーバーシューズがない》という叫びで終わる。

ペーチャと思想的に対極にあるラネーフスカヤとワーリャは言い争いをし、ペーチャは《いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです》と言い、ラネーフスカヤがからくり人形のように早口で反駁し、読書漬けの大学生風情を批判し、恋愛談義となり、今もまた帰ってきてくれとすがるフランスの夫を愛していると言うラネーフスカヤにむかってペーチャは《あいつはろくでなし》だと言い、ラネーフスカヤは皮肉混じりに《中学二年生みたい!》と言い返し、《滑稽な変わり者》《片輪》《出来そこねえ》と加速し、「恋愛を超越している」という言葉を弾劾する。ペーチャは中学二年生のというか小学生みたいに「絶交だ!」と叫ぶ。

ロパーヒンは舞台の右端に位置し、たまに金で囲われた桜の園の縁を歩き回り、一番よく動く。ペーチャが、そのぐるぐると腕を回すのをやめろ、と言うように落ち着きがなく、ガーエフが中身のない空想話をしている間、飛ぶ蝿をつかむように両手で何度も空をつかみ、金をつかんだ手は開かれ、ばらばらと床に金が落ちる。そして、ついに桜の園を落札したときには興奮し、苦い過去、桜の園で奴隷のように扱われていた過去を思い出し、それがようやく征服されたかのように放心し、かつてのラネーフスカヤがしていたように楽隊に音楽を演奏させる。

未来の幸福を確信し、声高に希望を謳うペーチャとトラウマを金で征服したロパーヒンと四人の家族。うまく思考することができず過去に囚われている三人が入る四角い木枠をもつアーニャはペーチャとともにその枠の中を客観視している。暗めのライティングで光は時折中央の四人を照らし、コントラストを強調する。この家族と外との境界は桜の園にあったのだが、腕を振り回し激しく動き回るロパーヒンとともにその境界は乱され、動かなかった四人が動かざるをえなくなる。

ロパーヒンとワーリャのロマンス、過去とともに現実を見据えているように見えながらやはり過去に囚われているロパーヒンと桜の園での家事仕事がなければ何をしていいのかわからない《世間知らずの》ワーリャのロマンスが成立するはずもなく、ワーリャがまわりに急き立てられて立ち上がり、ロパーヒンのもとへ向っても何も話されることなく、戻って来る。そして逆にロパーヒンが旅立ちのまえに持ちかけられ、話す時間を与えられてもそれぞれ別の道をいくことを強調するばかりでロマンスからは程遠いまま終わる。ここには何も変化をもたらすものがない。

ロパーヒンが動きで、ペーチャが言葉で、中央の四人にむかって動くことを要求するが、四人は最後まで動かず、過去の噂話やその場所に長いこと存在する本棚の話や亡霊の話などを語るばかりで、最後には追い立てられる。

原作のワーリャは何度も泣く泣き虫であったが、 ここでは泣かず、涙目になるだけ。感情はといえば召使たちとエンドウ豆の話で嫌悪を示し嘲笑するぐらいで他は空っぽで、ラネーフスカヤの起伏をなくした感じだった。

地点のこれまでの作品と同様、人物が向き合って対話することは少なく、虚空あるいは客席の上側を見つめて語られ、ワーリャがロパーヒンと話をするときも二人の視線は交わらない。口数は最年少のアーニャが最も少なく、ロパーヒンとラネーフスカヤが多いか。

数々の困難を経て《こんな悲惨な結果になって、いったいぜんたい何が起きたのだろう》というフィッツジェラルドの書きはじめるきっかけとなるような問いは出されない。呆けたような顔をして虚空を見つめて足をぶらぶらさせて話すばかりで、過去から何かを引き出そうという意志は感じられない。ロパーヒンは過去を現在克服すべきものとして措定し、ペーチャは過去を捨て現在の不断の努力によって未来への希望を獲得するよう促すが、中央の家族は加速した現在に流されるがままで、抗うことも少ない。じっと動かないでいるという行為は一種の抵抗であるかもしれないが、資本主義はそんなものを許さない。《不断の勤労》か金か。ペーチャとロパーヒンが現代的であるのに対し、過去に執着する三人はその場からいなくなれば忘れ去られる過去、遺物であり、無力である。

個人的な忘れられない過去が存在するがゆえに現在において周りからさまざまな有効な提案がなされても、聞き入れることができず、決定することができず、流れに決定が委ねられてしまう。過去は流れず、無表情のうえを、黙っていたほうがいい戯れ言のうえで現在だけが滑り落ちていく。

 

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)