親しい人に会えなくなるとはどういうことか Ⅰ(ロブ=グリエからゴダール)

人に会えなくなるという状態。はなればなれ、仲違い、別れ、離婚、絶縁、絶交、死別。

これらの行為、状態は悲劇として扱われることが多く、他者と関係して生きていかねばならない人間ならいずれか一度は経験する。悲劇として扱われるのはそれらが悲しみを引き起こす要因となるからであり、悲劇がつくられるのはそれが世界に求められているからである。

ロラン・バルトは悲劇を《人間の不幸を集約し、それを包摂し、したがって必然性や叡智や浄化のかたちでそれを正当化する手段》であり、《油断のならない》ものとし、それに《屈服するという卑怯な真似をせず》《技術的な手段》を探求することこそが必要な企てだとする。

ロブ=グリエは「新しい小説のために」の「自然・ヒューマニズム・悲劇」という単語を並べた章で、悲劇をめぐる考察に人間味、ヒューマニズムを加え、人間の感情に寄り添うイメージとしてのモノを生み出す隠喩をギリシャ的な紋切り型だと糾弾する。そういった人間にとって世界は《物質的な目的》のために利用するための場であり、道具であって、必要とされないモノは無意味となる。ここで《人間とモノとのあいだに存在する距離の救出の試み》として悲劇が登場する。ヒューマニズム、人間中心主義が取り逃したくないもの、それは世界の理解を阻む無であり、使用価値のないモノであり、そのあいだにある《断絶》を救うものとして悲劇をつくりだす。幸福の追求ではなく、《不幸の祝福》、それを容認するのではなく自らを犠牲にして絶えざる闘争を繰り返し、不幸、悲劇を崇高化する。

ロブ=グリエがその例として挙げるのが《孤独の機能》である。別れ、消えてしまった女の名を呼ぶ男がいて、何の返事もない。そこで彼は誰もいないし彼女もいないと結論するのではなく、彼女は「ほんとうは」そこにいるのだが、何かがあって返事しない/できないだけだというように行動を構成していく。そうすると呼びかけのあとにつづく沈黙も、「ほんとうの」沈黙ではなくなる。そして彼は自らの魂、内面のことを考えざるをえなくなる。呼びかける自分とこちらに声を発することのできない彼女との距離は苦悶となり、期待にして絶望、生活のひとつの意味/中心となっていく。彼は必死に考える…… どれくらいのあいだ? どれくらい長く? もっと大きい声で? ちがった言葉を? もう一度やってみよう…… やがて彼は誰も返事しないという事実を悟る。しかし、彼は呼ぶのをやめることができない。彼の呼びかけによって存在しつづける目に見えない現存が、永遠に沈黙にむかって不幸な叫び声を投げかけつづけることを強制するからである。その繰り返し…… 正気を失い、狂気へ向い、彼の孤独はある高次の必然性、救済の約束に変容する。そしてその救済が果たされるために、彼は死ぬまであてもなく執拗に叫びつづける。

 

距離、分離、二重化、剥離という要素は《孤独》と同じように苦悩を慈しみ、崇高化する経過を辿ることができる。この悲劇をめぐる冒険において発生する疑似必然性=救済は、《永遠の運動という見せかけのもとに、逆にのどをごろごろ鳴らせる自己満足的な呪詛のうちに、世界を凝結させてしまう》ものであり、不幸を癒すどころか、愛させる。モノと人間のあいだの断絶は存在せず、すべてのモノとのあいだに《魂の橋》がかけられ、以上の崇高化の操作後はさらに強固な橋となる。だからこそ悲劇的な思考は《好んでいたるところに距離を設定する》。自分と他人、人間と自分自身、人間とモノ、モノと世界、世界と世界自身のあいだ…… 一種の秘密の距離、内的な距離を設定すること自体が和解であり、結局、ヒューマニズムの《微笑にみちた最終的和解》しかないのか。ロブ=グリエは悩むという悲劇の形式に依りたくはないが、そこから解放されるために悩む。

 

ここで引かれるのがサルトルの「嘔吐」、カミュの「異邦人」の汚染されている世界を見つめる視線である。この二つ、またベケットの諸作品をさす《不条理》もまた悲劇的ヒューマニズムの一形式である。「異邦人」はそれを痴情の絡んだ事件、恋人のケンカにおいてパスカルの言う《われわれの条件の本来的な不幸》を開陳し、世界を殺人行為の共犯として告発する。「嘔吐」においては海岸の小石、ドアの把手、独学者の手という触覚による啓示が示され、視覚ではなく触覚からモノとの距離が思考される。そしてモノの《色彩を見ること》へ移行する。ロカンタンは色彩と触覚の類似を経験し、《色は移ろいやすく、それゆえ、生きている》ということを発見し、《モノも彼自身とおなじように生きているのだ》ということを知る。ここでモノは完全に自立し、人間から離れる。最後に残された線もまた自己との一致を見せるものは存在せず、悲劇的な世界、モノとの距離が設定された世界にいることになる。ロカンタンの唯一の描写法は《類推》であり、彼はもはや彼の代名詞ともなっているマロニエの木の根っこは黒い爪、煮詰められた皮、かび、蛇のなきがら、禿鷹の爪、動物の大きな足、あざらしの肌、ついには吐き気となる。ロブ=グリエは「嘔吐」における《実存は、内的な距離の不在によって特徴づけられ、吐き気とはそうした距離にたいして人間が感じる、ひとつの不幸な内臓的好み》だとし、「嘔吐」もまた自然ーモノと悲劇を高度の段階まで推し進め、戦い、「異邦人」と同じく新たな力を賦与することにしかならなかったという。

 

ロブ=グリエは小説を書くにあたって、線を用い、幾何学的な情報も描写に取り入れた。《対象を再現することしか目的とせず、そのモデルと同様多くの解釈(そして同じような誤謬)の余地があれば、それだけ成功したということになる》ような写真や図面や精神的な表現とは反対に、モノ以外のなんらかの精神的、心理的、人間的な彼岸を求めようとするあらゆる可能性の息の根を止める制限としての形体描写である。自分と対象との距離(外面の距離=寸法)を記録し、それが断絶ではなくたんなる距離であることを強調すること。それはモノがそこにあること、モノがそれぞれ、自己だけに限定されたモノ以外のなにものでもないことを明らかにする。幸福な和合、合一、不幸な連帯ではなく、あらゆる共犯関係の拒否。

 

そこで再び視覚が帰ってくる。視線は《たんなる視線にとどまろうとするかぎり、モノをそれぞれの固有の位置にとどめておくから》らしい。視線には細部の遊離、浮上/熱心な観照ゆえの幻惑、嘔吐といった危険があり、慣れ、中和といった見つめることによる浄化作用もある。ロブ=グリエはそれでもやはり視線はわれわれの最上の武器であり、ことに線だけに甘んじるとき然りだと言うが、線だけに甘んじることができる視線というのはそう簡単なものではない。それがロブ=グリエの「生存の技法」なのか。主観性をもたざるをえない視線、しかし、その観点を方向づけた世界である視線の主観性こそが、世界における自分の地位を決定するのに役立つ。視線にヒューマニズムやそのときどきの感情や思い込みをべたべたとくっつけることは、この地位を隷従に貶めるのに役立つだけである。

むなしい未練もなく、憎悪もなく、絶望もなく、隔たっているものの間の距離を測定するということは、隔たっていないもの、一であるものの認知を可能にしてくれるはずで、事実、すべてが二重であるというのは嘘である――というか、少なくとも暫定的なものである。人間に関しては暫定的で、そこにわれわれの希望がある。モノについてはすでに、嘘で、ひとたび垢を洗い落とされると、モノはもはやわれわれがもぐりこむことのできる断層もなければ、振動もない、モノ自身へとしかわれわれを導かない。

距離を測り、その対象を見つめること。

足先から頭のてっぺんまで私を規制し、あらゆる思想、感情を支配する悲劇、私の身体が満足し、こころが満ち足りても、私の意識は不幸にしたままにする悲劇。その悲劇から逃れるには。この不幸もまたあらゆるものと同じように空間と時間の中にアレンジメントされている。ロブ=グリエはいつの日かそれから解放されるだろうが、いつなのか、保証はなく、それは賭けであり、人間の病を癒すことができるものであり、それゆえ人間を彼の病のなかに閉じ込めるのは馬鹿げている、 したがって《失うものは何もない》こそが唯一の妥当な賭けだ、という………が、そんな紋切り型……… 組織的な悲劇化は自発的な意志に依るものであるか、という命題は、悲劇は自然的で決定的なものだと措定する輩に疑惑を投げかける。その疑惑を探求すること、その探求、闘いこそが悲劇的な幻想(ドン・キホーテ)か。さすればそんな闘いはやめてモノに依る、というのも理に適ったことか。そんなあいだでこの論考は終わる。

 

ドゥルーズの勘違いかもしれないが、ゴダールが「はなればなれに」において世界と人間と映画について語っている。

現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ

現実的な人々と悪しきシナリオを生きる世界。ここでいう世界は悲劇に満たされている。そしてその《映画でできている》世界は安易な人間万歳のハッピーエンドで丸く収められる。それは嘘であり、欺瞞であり、偽善であって、とてもじゃないが信頼することはできない。

 

そのハッピーエンドしか受けつけないモノの見方、自己啓発ツール《プラス思考》。 プラス思考は自分の範囲外にあるモノは自分の楽観的な視点にあるモノへ単純化し、適用可能化する排他的な代物であり、自分に都合のいい道具だけをまわりに備えておく極小世界の住人にしかなれない。モノを手慣らしたつもりが、隷従してしまう。彼らのまわりには不幸な世界は存在しないし、完璧な自己という幻想を手に入れることができるが、その世界にはまがい物、嘘がはびこり、自由はなくなり、やがて身動きがとれなくなる。偽物でも楽しければいい、気持ちよければいい、という快楽主義者がやがてそのなかでしか息ができなくなってしまう事例は多々ある。そんな自家撞着、中毒状態から救ってくれるのが、別の視線、主観性をもつ他者であるが、それを受け入れるには自分の世界をすべて壊してしまわなければならない。同じ視線、同じような思考をもつ他者は何の効果ももたず、救いも訪れず、紐で足をくくられたまま二人三脚で水に溺れる二人となってしまう。

悲劇的なモノに満たされた世界でモノを見つめつづけること。距離を設定して呼び続けるのではなく、距離を測り、見つめること。

 

つづく

新しい小説のために (1967年)

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嘔吐 新訳

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異邦人 (新潮文庫)

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