2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

おしゃれなだけで終わらない女の子のために(ひなぎく)

1996年に咲いた二輪のひなぎくの自由な振る舞いを見に、多くのおしゃれをした女の子が渋谷のイメージフォーラムに集まり、階段に座って見るというかすかな苦行を受け入れながら画面を見つめているのはなかなかよいと思った。

そしてそうさせるのはもちろん『ひなぎく』という映画とそれを絶賛したカヒミ・カリィ小泉今日子岡崎京子…と文化系女子の憧れの大きな対象だろう。

フューチャーはなくレトロでもない。

原宿のアメリカン・アパレルには赤い口紅をぬりたくってハイウェストのスカート、ぷりぷりとしたケツを突き出すショーパンを着て肌を晒すバブル女たちが思い思いに試着していて、そこがいつのどこだかわからなくなるようなクロスオーバー時代に『ひなぎく』とジャック・タチの特集上映が満員御礼のまま終わるのは不思議なことではない。ただし東京に限る。

左隣の女はイジー・バルタの短編アニメーション上映が終わったあとにガサガサとシゲキックスの袋ごときものを取り出して中身を口に入れ、さらに左隣の友人の女に手渡し、ことあるごとにシゲキを必要とした。左隣の女の左隣の女は初夏の空調のせいで寒かったのか、ショーパンを履いたせいで丸出しになった生足をさすりつづけていた。その摩擦音は『ひなぎく』の音響と同じく気持ちのよい音ではなかった。

 

女二人が酒場で酒をあおり、ダンサーを見て大声ではしゃぎ、妙齢の夫婦のワインを奪って飲むような映画の割には静かで、見ているほうも音を出していたのはその二人ぐらいだった。たぶんお気に召さなかったんだろう。どうせなら楽しんで音を出せばよかったのに。

 

ルノワールの『恋多き女』では幸運を呼ぶ花として授けられていたひなぎくはここではたいした役目を負わず、金髪ボブに花輪として乗っかっているだけ。かわいい。なにかしなければという強迫観念もかわいらしく、好き放題やって、やがてそのツケを払わせられ、存在を忘れ去られ、見えないものとなってもなお。『踏みつぶされたサラダだけをかわいそうと思わない人々にこの映画を捧げる』

『踏みつぶされたサラダ』(目に見えて痛々しく、かわいそうと思われるような人間)すらかわいそうと思わない人々は最初から除外されている。『ひなぎく』の二人が「かわいそう」と言われることを求めているかというとたぶん求めてはいないが、同情からくる恩赦や施しは喜んで引き受けるだろう。社会との交わりはひっかけて汽車に乗せて消滅させるおじさんたちぐらいで他は皆無に等しく、与えるも奪うもない。ただ好きなようにやるだけ、ゲーテの《気に入ったことならば何をしてもよい》を受けて最初は調子よく進むがやがて社会とぶつかり、その状態は終わり、それは青春の終わりと重ねられることも多い。しかし、終わらないほうがいいに決まっている。ここに集った女たちの何も終わらないことを願う。

 

ひなぎく [DVD]

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