2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

征服者は常に敗北者によって征服される(アクト・オブ・キリング)

そら吐きたくもなるわな…

1965年、インドネシア共産主義者と華僑の100万人以上が虐殺された歴史の端っこにいるヤンキーたち…こんな奴らの行ないから人間の尊厳だの悪とは何かと言われても… 

 

主人公が設定されるドラマチックなドキュメンタリー、今作の主人公北島三郎似のプレマン、アンワル・コンゴ、凡庸で酒と踊りとドラッグで大事な何かを忘れてこれまでやってきた老人、徐々に一般的な人情脆さを見せだすテキ屋のおっさんに設定されている。彼はアイヒマンと同じくただの使いっ走りであり、ステレオタイプな権力構造による上意下達で1000人以上を殺した馬鹿さ、事実を見せる。悪の凡庸。

そして企画《もう一度その残虐行為を演じて再現してみませんか》は、北島三郎が、虐殺の無意義を暴露してしまう恐れなど考えたことのない単純な人間自分たちの武勇伝を!と喜んで膝を打ったことによって実現された。障害物、共産主義者と華僑を邪魔だから殺せと指示した者たち、指導者はおそらく広報的役割を担う副大統領やこの映画をつくるのは《やめとけ》と言っていた仲間以外登場せず、《虐殺の現場》というわかりやすい悪さ酷さ醜さをもつ部分に焦点が当てられている。 

以下イメージ。

広大な湖のほとりで踊る女たちとそれを悠揚に椅子に座りながら眺める男… 北島三郎の悪夢の再現で現れるウルトラマンの怪獣… 滝の前で踊る女と気持ちよく演歌を歌っている男とオカマ… 自主映画のセットでひどいメイクを施し嬉々として殺人の過程を語る男… 再現がうまくいったと思い込んで歓声を上げる者たち… 協力的に自分の親が殺された過程を語る華僑の男… 再現が終わっても泣き止まない子ども… おれたちが大衆を煽り、標的を決定したんだと自慢げに語る新聞社の社長… 虐殺を心の底から肯定している副総理… 退屈で貧しい日常に刺激を与えられて暴虐の限りをつくすヤンキー集団…

 

再現によって北島三郎はようやく自分の犯した罪を理解しはじめる。「被害者の気持ちがわかる」という北島にむかって監督のジョシュア・オッペンハイマーは《こんなやつに理解されたくない》と叫ぶであろう被害者を思って「これはただの再現ですよ」と諭すが、ただただ気持ち悪い北島はそれでも「いや、わかるわかる」と言ってやめない。

そして「報い」が与えられなければよいのだが… と暗い顔で言う北島の想像力はやはり小さく、自分の中を超えない。被害者への意識というよりは自分のした行ないを拙いとはいえ再現したことによって過去の自分の殺害現場、酒やドラッグで忘却しようとしていた時間へ連結され、気持ち悪くなったという感覚。

 

したがってこの映画で《悪とは何か》と問うても意味がない。というか《悪とは何か》という問いに意味がない。悪とは…である、と決めつけたところでその断定を超える悪しきものは現れる。善悪の彼岸はとうの昔から見つめられており、此岸で善とは…悪とは…と言っても狭量な視点を培うのに役立つだけで、思考停止となんら変わりない。 

アラン・レネの《夜と霧》ではピラミッド構造、強制収容所の外観、ガス室、監視台、寝床、そこに運び込まれる人々、労働、食事、睡眠、排泄、そして処刑が映像で明示され、忘却を責め、記憶を求める。終戦後に《上に言われてやっただけ》《責任はない》と言っていたナチの親衛隊やカポたちとは違ってアクト・オブ・キリング》では多くの民衆に忘れられたというか抑圧された虐殺の記憶を加害者が甦らせるという倒錯の映画であり、それは常軌を逸していると言える。

 

ヒトラーによるホロコーストスターリンの恐怖政治、文化大革命、ポル=ポト、ルワンダ… 強固な悪の構造、一点集中型で上の命令には逆らえず、多くの民衆の指示を得て、自然と虐殺を行なう構造は今作では見えてこない。その末端部分にいるアンワル・コンゴが戦争帰りの兵士のようにPTSDに苦しむ姿が見えてきて終わる。熱に浮かされて笑いながら楽しそうにハリウッド映画の悪役のようにやってきた残虐行為は一時的な熱狂と、酒とドラッグと、その時の流れと、自らに任された使命感に支えられ、世間一般と同じく正当化され、忘れられてきたのに、わざわざそれをまた思い出そうとすればそうなる。

いまだに権力を誇示し、脅して金を巻き上げ、選挙にまで出る西田敏行似のアルマンのほうが狂っているのかもしれない。

もっと恐ろしい影もある。

 

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