ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』

アルトマンから継いだ群像。微妙につながっている。群像劇は要素の繋がり、伏線、その回収が次々に継起して進んでいき、その中心に作家が見えるためフィクション、特にエンタメの形式であり、今作も中盤で登場人物各々に同じポップスを歌わせてフィクション性を強調する。

すべての登場人物が似通った問題=過去を抱え、それであーだこーだと言い合い、死に際の老人二人にいたっては無個性であり、逼迫感がなく、妻に対する罪の告白も捨てた息子への電話も重みはなく、軽く、しかし笑えるようなユーモアはない。

今さら過去を悔いてその埋め合わせというか、脱糞したい欲望をあらわにされて、心優しい介護士フィリップ・シーモア・ホフマンはわくわくしながら電話をかけてその願いを叶えるために動くが、それは重要ではない。死に際の父を見つめて涙するトム・クルーズに感情移入することなどないだろうし、混合ドラッグで自死しようとするジュリアン・ムーアだって息を吹き返しはするが、倒錯というか一番キャラが薄く極小の自分の世界に浸っているジュリアン・ムーアに移入することもない。

というか全員アメリカ的軽さ、ギャーギャーと喚き、つまらない過去を悔い、懺悔し、泣き、また喚き、ハートウォーム、を見せ、その繰り返しが人生と言うがごとく。フィリップ・ロスの《欲望学教授》の登場人物たちも似たような感じだが、これは何はともあれ文学なのでここまで固定化されておらず、主人公はチェーホフで絶望に立ち向かおうとしている。

マグノリア》を行き交う人々はいったい何で絶望に立ち向かっているか。そもそもの絶望が絶望ではないと言うことは禁じるとして。

群像劇だからここはやはり関係。稲妻に撃たれて馬鹿になった元天才児はバーテンの筋肉マン、死にかけの老人は息子、警官は見回り中の家にいたヤク中、セックス伝導師は掘り起こされた父に向う。天才児なら父を捨てるだろうが、天才児でもやっぱり人間と言いたいこの映画では父へ。この少年が一番悲劇的。何かを超えたと思って悲劇を乗り越え、また関係を持っても元の木阿、その持続が習慣となってそれはもう切れない何かになってしまい、そうするのなら《かもめ》の言うような忍耐が必要となる。

 

死に際の夫を介護士に託して服毒自殺を試みたジュリアン・ムーアは助けを求めはしたが、行為だけで中身が伴わず、結局自分の中だけで終えようとしたが、生き返った。

 

人生、何が起きるかわからないから。

 

愚か者たちが愚かにあがく姿を見て笑うようなシニシズムが群像劇には固有の装置として取り込まれており、それから逃れるためにはステレオタイプな人物描写を避ければよく、《ザ・マスター》ではそうしていたが、この映画ではそこには手を伸ばしていない。あんなに長いのに。

退屈な人生、退屈な映画でもカエルが空から大量に高速で降り注げばおもしろくもなる。

ピアノと歌だけで天気の《内容》を変えるニーナ・シモンは素晴らしい。

 


Nina Simone - I Think it's going to rain today - YouTube

 

 

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