2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

マームとジプシー《まえのひ》 / 地点《ファッツァー》

京都、元立誠小学校の音楽室というかつて使われていた木造の一室は過去のものであるかぎりにおいて時間の経過をそれ自体が示しており、物語をもった小説の文章をひとりで語るという今回のマームとジプシーの公演においては過去と現在、そして未来をその場に凝縮し、提示するという試みに合致していたようだ。

一話目《…コスモス》でミナペルホネンのワンピースを着た青柳いづみは扉をあけて現れ、顔をしかめ、にやけ、へらへらとしてまたしかめ、ユーモアを見せ、語りはじめる。川上未映子の小宇宙的女性の世界観はさておいてここは青柳いづみの動きと顔と絶えず動きつづける口を見ていればいい。

一人の女子と一人の男子、女子の弟、また女子。中心にあるのはやはり女子で一人称で進み、カーペットで区切られた四角形のなかで荷物を出したり、投げたり、忙しく動き回り、やがて落ち着き、すべての窓を開け放つ。春の冷たい空気を吸い込み、自分のものにして終わる。

二話目の《戦争花嫁》は赤いピンヒールと白いロングワンピースを着た青柳いづみが白い布のついた木を持ち、白い布で目を隠し、ほとんどその場から動くことなく語りつづける。目を隠したことでより内面独白に近くなり、ほとんど動かないのだが、終盤にかけて《戦争花嫁》という言葉から時を放ち、ひとりになり、海から空へ、そして火事へイメージが映り、また戦争花嫁に戻るのだが、そこで青柳いづみの声が大きくなるにつれて身体も大きくなり、その場の空間を自分のものにしているような錯覚を覚えさせる。それは背景の黒板に投影された青空の青や白い布、目を見ることができないことによる無人称性、あるいは原田郁子の綺麗な音だけが点描で落とされたようなピアノの要素もあるのかもしれない。その音楽のなかで原田郁子なのか、阿部芙蓉美なのか、高く美しい透明なハミングか歌が聞こえてきて、それはたしかにイメージに合致していたのだが、あまりに合致し過ぎているところもあるし、何より青柳いづみの声がすでに歌っているようであったのにそこに別の歌を加える意味があるのか、疑問に思った。

そして三話目の《先端…》でその疑問は失望に変わる。青柳いづみがリズムカルに関西弁を繰り出して、同じ単語を反復することでタメをつくり、語りのスピードを上げていき、まわりに言葉を投げかけるのではなく投げ捨てるように吐くところはとてもおもしろかった。

しかし、その興味深い語りはなぜか掻き消される。ゆらゆら帝国をもっとシンプルにしたような歌とエレキギターのノイズが声を掻き消し、それと争うように青柳いづみが絶叫するようになる。言葉を聞き取るのは困難で、前もってパンフレットにテキストが封入されていたのだが、それを読みながら聞くのは無意味極まりないし、さすがにそんなことは求められていないだろうし、もうかろうじて聞こえる単語を繋ぎ合わせていくしかない。そのノイズがロックバンドのノイズというところに意図があるのだろうか? 物語の要素から選び抜かれた音ならまだわかるが、ゆら帝なのか? ゆら帝「風」なのか? どちらでもいいがここでは不要であった。

《先端…》のテキストと関西弁の心情吐き出しとエレキギターは親和性を持っているのだろうが、親和性はエモになるだけであり、うるさい音を聞いたときの緊張感と勢いと波立つ感情という凡庸な反応しかなく、青柳いづみのリズミカルな語りと二話目とはうってかわった荒い声を殺しているだけだった。エレキギターだけならまだしも別の声の別の歌を加えてしまうのは無神経ですらある。エモが悪いわけではないが、青柳いづみを殺してまでそうする必要性はない。そしてその激しさ静けさのエモのギャップに絶賛される理由が含まれるという皮肉。

最後の《まえのひ》でもビョークのHyperballadが被せられる。もちろんビョークは悪くないが、青柳いづみはなぜ別の歌と闘わなくてはならないのか? それは乗り越えるべき負荷ではない。そもそも対決する理由などないし、そんなものを見せたいのか? ただその歌の雰囲気が物語に親和性を持っているから、ポップな推進力があるから、そんな安易な意図が透けて見える。はしごを昇り、飛び降りるを繰り返しながら声を限りに語りつづけるところにビョークの歌が響く。川上未映子の言葉が紡ぐ物語がこれらのポップスによってひどく俗っぽくなるし、別の歌が混じることで言葉はないがしろにされるし、それ自体がすでに歌になっていた青柳いづみの語りが打ち消される。ひどく悲しい気分になって、泣きそうになった。

 

映画には編集があり、音楽はあとになって付与されるものであり、あるイメージに寄り添うか、あるいは離反して別の空気をつくりだすかする。大方、親和性の高いものが選ばれ、エモくなって場を盛り上げたり、イメージを補強したりする。

演劇はそのときにその場でなされる一回性の出来事であり、そこでもあるイメージの創造が目指されはするのだろうが、そこに既成の音楽それもポップスを演者の声と同等かそれ以上の音量で使うというのは、常套かつまっとうな手段なのだろうか?

 

地点の《ファッツァー》の音楽は空間現代が担当し、ブレヒトのひどく貴重で重要なテキストを決して邪魔することなく、間をつくり、リズムを生み出していた。私が観たのは生演奏の日で、録音したものを使ったときのことはわからないが、そこに安易さはなく、ライブならではの失敗の許されない緊張感があり、違和感なく演奏者も俳優となって加わっており、ただむやみやたらに感情をかき立てるのではなく、地点独特のいびつな語りと親和していた。

歌は歌わなくとも、たった一人でも、語りがあれば生まれる。音楽はたった一つの動作、はしごを駆け上がり、飛び降りる、旗を降る、窓を開ける、歩く、物を投げる、そんな他愛ない動きからだって、生まれる。青柳いづみはそれを可能にすることができる稀有な俳優であり、それは一話目の《…コスモス》からすぐにわかった。窓の外を眺め、外の音を聞き、語っているところは極上のイメージであり、音楽があった。それだけで十分だったのに。