デヴィッド・O・ラッセル『アメリカン・ハッスル』
誰かのことを好きになってそれが本物かどうか知りたかったら相手の好きな音楽を知ればいい。それで真偽がわかる。音楽を聴かない奴はやめといたほうが身のため。
リアルと嘘、真実と偽物、相変わらずの二項対立だが、フィクションに現実から圧力がかけ始められているよろしくない現状ではその対立こそが要点となってしまう。「フィクションだから」と言い逃れされるようなただ消費されるだけの物語か、現実と虚構を限りなく近づける「限りなくグレー」な物語か、おとぎ話か…
『アメリカン・ハッスル』は実話をもとにした。しかしながら、すべてのフィクションが実話をもとにしてある。現実の断片が脳内ミックスされ、一つの物語として吐き出される。小説を読んで、小説内の出来事としか思えないようならそれはまったくおもしろくない小説であり、映画もまたしかり。しかし物語だけではない。本当らしい出来事はたった一文、ワンフレーズ、一瞬の映像、動きの中に現れることもある。
『ザ・マスター』ではマスターのペニスを責めしごいていたエイミー・アダムス(シドニー)の掴めない無表情。マスターにも似てぶよぶよのクリスチャン・ベイル(アーヴィン)に愛を謳う顔か、直情径行のアメリカンコップに股間を押し当てられたときの恍惚の表情か、にやっと笑い相手を騙すときの顔か、どの顔も本当なのだからタチが悪い。自分でもよくわかっていないらしい。
デューク・エリントンの Jeep's Blues で結ばれた二人の信頼は固い。凶暴で美しい元妻&かわいい息子への想いがあったとしても、感傷的にはなりすぎない。ぶよぶよの腹とハゲ上の9:1分けすらも邪魔にはならない。
現在から過去へ、やがて現在に追いつき、加速し、終わる形式。
加速する場面で登場するロバート・デニーロはマフィアよりもマフィアらしい。誰よりも現代の小説家らしい小説家であるミシェル・ウェルベックが登場する『地図と領土』のようにデニーロは登場する。
『明日に向って撃て!』は「ほとんど実話である」と言って始まり、登場人物を現実的に設定したが、退屈であった。フィクションにも現実にもなれない中途半端な映画。
『アメリカン・ハッスル』はまぎれもないフィクションであるが、物語は現実としての可能性を大いに残し、グレーゾンに留まる。信じられるか、信じられないか。
その信用を悪用したアーヴィンは政治家カーマインに裏切ったこと、嘘をついたこと、真実を教えず友人のふりをしたことを謝罪する。受け入れてもらえるはずがないが、謝罪することには意味がある。裏切られた人には傷が残り、人を信じる意味も信じられなくなる。信じてもしょうがない。金と愛はその中心にあり、金と愛で騙し合い、信じ合う。
元妻がシドニーに与えるキス。縄張り争いのキス。愛の欠片もない。収まるところに収まらなければ最終的な和解が望めない。
信用が利用される現実は醜いが、デューク・エリントンを信じた二人はスマートだった。
錦糸町で見るべき映画ではなかった。アメリカンアパレルを着た女の人は一人もいなかった。渋谷か梅田か新宿がいい。