ビフォア・ミッドナイト / 浮雲

腐れ縁 と 腐れ縁。

中年をむかえたイーサン・ホークジュリー・デルピーロマンを語った小説家はいまだ妄想をしつづけ、環境保護活動家は家事との両立を計る。延々とつづく議論と会話。元妻との間にできた息子への親馬鹿、元妻批判、過去の火種、家事と仕事、セックス……二人を正面から撮った車内のショットでは軽妙なユーモアも交え、二人の問題について話し合う『ビフォア・サンライズ』の面影が残るが。

風光明媚という紋切り型があてはまる大味な観光地的風景が広がるギリシャ。落ち着いた色彩と穏やかな光があったパリにおける会話は、年老いたからという理由を加味しても、今回の場所(遺跡をバックに山羊が現れる小道、若いラブラブカップルや中年にさしかかってなおラブに従事し見せつける文化人類学者の夫とその妻、パートナーを亡くした老人、子どもたちが泊まるホテル、面倒な思いやりを押しつけられて二人きりで泊まる大したことのないホテル、海辺のカフェ…)にはない。

文化人類学者の夫とその妻はブニュエルが言うような、醜い、害虫カップルの典型だろう。会話に割り込んできては自分たちの話をし、大したオチもなく、抱き合って笑う。そして未亡人のちょっといい話(抱擁と幽霊)。みな黙りこくり、アメリカ的な同情の声で答え、乾杯。

かつて毎晩毎晩何度もセックスした夫婦にいまや情熱はなく、話すべきことではなく文句ばかりがつのる。ジュリー・デルピーは肉がつき、垂れ下がった乳をはずかしげもなく曝したまま、文句を言い続ける。裸体の圧力に押されてか、イーサン・ホークは守勢に回るが、うんざりして口が軽くなり、破綻する。

ジュリー・デルピーであっても、惜しげもなく曝された肉体に魅力はない。それはこの夫婦の関係あってこそ見せられるような希少ものではなく、誰に対しても可能であり、自らの秘密を明かすものではない。イーサン・ホークは受け入れ、文句を言われても最後には二人でいっしょにやっていこうとする。それは二人でしか可能でないものをいくつも得た結果か。

 

成瀬巳喜男の『浮雲』の二人。ゆき子(高峰秀子)と富岡(森雅之)、高峰が森を追っかけているように見えるが、どちらが追っかけているのか、どちらからくっついているのか判然としない。いつのまにかどこかの部屋に二人がいて、二人でどこかへ行く。揉めれば富岡は別の女を求め、ゆき子は身体を売り生計を立てる。そしてまたいっしょになり、ゆっくりと牛歩で進む。転々と流れる。

玄関から出て小道を歩く二人のバックショット、過去への郷愁を捨てられなかった二人。ゆき子は日本で富岡に再会した後に、インドシナで二人が結ばれたときのことを思い出し、富岡はゆき子の死後に、ゆき子が木漏れ日のなかを跳び回る姿を思い起こし、涙する。ただの回想は何の助けにもならない。

ジュリー・デルピーイーサン・ホークは二人が結ばれたきっかけを恥ずかしそうに若いカップルへ語り、いちゃついてみせるが、その後、ケンカする。ケンカの種にさえなる。

高峰秀子の粘っこい声と拗ねた顔。富岡は常に冷めているようだが、ゆき子を眺めている。

ゆき子はともに暮らすことを求め、富岡は一人でいることを求める。二人で何をするでもなく、どこに向うでもなくゆっくりと歩き、「どこにも行けないみたい」とゆき子が問い、「遠くにでも行くか」と富岡が答える。ゆき子は屋久島で死ぬが、それは悲劇ではない。自らが望み、それは果たされた。

「花の命は短くて 苦しきことのも多かりき」そうなのだろう、すばらしい腐れ縁が残った。

ロマンを語ってもいずれは肉体と同様、縁も腐れてゆく。好きだの愛だの何の問題でもない。ジュリー・デルピーの頭の弱い女を演じる可憐さ、高峰秀子の「ほんとにきたわね」とでも言うような笑み、森雅之の軽口、イーサン・ホークの真面目な言葉があればいい。

1人で「So What?」と叫んでいる若者にはならずにすむ。

しかし別の形がある。

 

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