地図と領土 / シナのルーレット / メーヌ・オセアン / Gretchen Parlato

ユーモアのない生 と 中流の「幸せ」 と 音楽。
 
ウェルベックの『素粒子』を読んで、この作家の本はもう必要ないと思った記憶がある。新聞やネットなどでよく見られる社会問題に対する悲観的一般論が散らばっているだけで、フランスなら『地図と領土』では故人扱いされていたソレルスのほうが多様な視点を持っており、皮肉もユーモアも多い。『地図と領土』にもユーモアはなかった。

 センチメンタル、ノスタルジアは今でも強く訴求されている。それはいつまで経っても変わらない。現実に退屈を覚えた瞬間に訪れるそれらへの欲望は、バブル崩壊後の日本や先進国入りした中国で村上春樹がよく読まれたことでも簡単に理解される。ポップ歌手は相変わらず失恋を歌い、そこから立ち直るべくその過去の思い出を美化し、涙を流させる。それは当人にとってみれば気持ちよく、そのとき現実的な問題としてある悲しみを和らげる方策としては一番手っ取り早いが、そんなもので解決される問題は問題として与えられたときからすでに悲しみや悲劇といった大層なものではなく、ただのセンチメンタルな餌であり、他の現実から目を逸らすための都合のいい口実である。

 『地図と領土』には『素粒子』の不真面目さ=皮肉といったものが少なく、静かで淡々とした描写が多い。登場人物も作者本人の躁鬱的対応以外は主人公から警察官にいたるまで普通で真面目でどこにでもいそうな奴がほとんどであり、独創的な人物はいなかった。会話の中に現れ早々と姿を消したロブ=グリエの人物ほど透明ではないが、うっすらとした影しか持たないような人物… ジェドとフランスでも指折りの美女の幸福なハネムーンでさえ 

『それは<若者たち>の激しい、熱狂的な幸福ではなかったし、それはもはや無理だった。彼らにとって、ウィークエンドに<薬でキメる>とか<無茶呑みする>などというのはもはや問題にならなかった。まだそれを面白がることのできる年齢だったとはいえ、二人はいまや西欧社会が中流・上流階級の中年層に提供する、エピキュリアン的な、穏やかで洗練された、しかもスノッブではない幸福への準備段階にいた』

と描かれる… 田舎の最高級ホテルに泊まり、最高級レストランで食事をする…「空港」で別れる… 準備段階で終わり。その先はどうなるのだろう。その絶え間ない反復か。金に困らない愛に満ちた日常か。第三部、中流代表として登場するリタイアした警察官には子どもはいないが、犬と、優しく聡明で年老いてもなお美しい妻と幸せに暮らす。それはたしかに「幸せ」なのだろう。そのいつでも普遍として君臨してきた「幸せ」は21世紀の今でも中流階級、「大衆」の中心=目標に据えられているが、それ以外の、途切れ途切れかつぐるぐる回る時間の中で、埋められない空白を生み、どこにも繋がらない者たちにとっては幸せですらなく、求められてもいない。『地図と領土』の人物のように何十年単位で時間が飛ばされてしまうような、数少ない出来事で要約される一生をおくる者たち…孤独のうちにTVを眺めるウェルベックやジェド、彼らを搾取するテレビ業界の面々、彼らを遠巻きに眺める警察官…労働に従事し、労働がなくとも怠惰に時間をおくる人々…… 人それぞれの「幸せ」の問題ではなく、生における時間の問題… 人それぞれなどと悠長なことを言っている場合ではない。
 
 ファスビンダーの『シナのルーレット』の人物たちの欲望は倒錯一歩手前で踏みとどまってはいるが、誰かに言われたとおりにブルジョワの城の一室で立ち回り、男は女の肩に接吻し、女は背後にいる男に背をもたせかける。彼らは表面上、一般市民と同じように「生活」しているが、夫も妻も浮気し、脚に障害をもつ子どもは大人のように教養と権力をふりかざし、彼らのうえに君臨する。夫と浮気相手の美しいアンナ・カリーナは城に着くなり、森に散歩へ出かけ、接吻を交わし、草のうえで横になる。蜜月はすぐに終わり、子どもの仕組んだゲームに強制的に参加させられ、妻は怒りをあらわにして銃口を子どもにむけるが、アンナ・カリーナにたしなめられる。いたるところにガラスや鏡が置かれ、そこに顔や身体を映し出されて分断された登場人物たちは城に来るまではまだ存在していた自らの欲望すらわからなくなり、気まずい表情を見せ、子どもに言われるがまま「シナのルーレット」というゲームを行なう。このゲームは二つのチームにわかれ、一つのチームがもう一方のチームの中から一人を選択し、もう一方のチームが選択したチームに対してその人物に関する質問を行ない、その答えによって選択された人物を当てる、という内容をもつ。その質問は「その人のイメージは?」「その人の最期はどんなものか」「動物に例えるなら」「作家なら誰か」「もしその人がナチ時代にいたとしたら何をしていたか」などで、空気を読む日本人なら穏当な答えを出すだろうが、この城にいる人物たちは容赦ない。答えを当てるチームが明らかに不利というか可哀想な状況に立たされ、城の管理人=召使いが答えとして選ばれるが、それは子どもが最も憎んでいた母であった。

 このゲームは相当残酷で、趣味が悪いように思われるが、要は隠語で誰かの悪口を言っているだけであって、それはブルジョワ、労働者、学生の中においてなされる仲間はずれ、いじめの構造と同じである。その中のプレイヤーたちは感情を持ってはいるが、欲望のベクトルがどこを向いているのかいまいちよくわからず、権力者=子どもの操り人形となっている。ファスビンダーは最後に結婚を批判する。この映画ではたしかに結婚は馬鹿げたことのように思える。夫妻は結婚し、子どもを産んだが、望みどおりに育たなかったことで中流の「幸せ」を放棄し、それを娘に罰せられた。中流の「幸せ」は甘くはなく、『地図と領土』の警察官夫(と犬)と比してみると、子どもはリスクが大きいらしい(一般論)。中流の「幸せ」には一つの入り口としかなく、数少ない出口までには多くの外れ道が存在する。

 そんな陰鬱な『シナのルーレット』には『マルタ』が音楽を聞いて安らぎを得ようとしたり、『ローラ』がやけくそに歌いまくったり、『不安は魂を食いつくす』のカップルがバーでタンゴを踊ったりした音楽と運動はなかった。それは『地図と領土』にもなかった。数少ない登場曲であるリストの室内楽は結局みなに先立たれて死を待つのみ、といった場面で流れるメランコリーしか反映されない。音楽のない人生では運動不足になり、憂鬱になり、孤独になり、自然がなく、愛もない。同じフランスの、ジャック・ロジェの映画がいつも楽しく、美しいのは音楽と交わりが同じように流れていくからだ。『メーヌ・オセアン』で、直情径行の労働者たちがホールで歌い、踊るのを馬鹿にして眺めるような人物は存在しない(いつでも傍観者でたまにしゃべったかと思うとどうでもいい理論ばかり話す女弁護士も一緒に踊っているが、どうしても好きになれない)。


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Gretchen Parlato のButterfly (Herbie Hancock / Jean Hancock / Bennie Maupin)のような素晴らしい音楽が現在も生まれているのだ。声でリズムをとるのではなく、声がリズムとなり、歌になり、最初の鳥のさえずりのような声と手拍子は持続したままベースやドラム、ピアノに繋がる。映画が世界なら音楽は生である。


 

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