教授とわたし、そして映画 / 引き裂かれた女 / かぐや姫の物語

大人であるらしい男 と フーガ と 絵。

男たちは子どもの身振りを持ったまま、だんだんと深化していく。女たちはいまだ謎のまま。

追い求める男女、別れに際して化け物に変わる女、ストーカーまがいの男、感傷的でどうしようもない男、強い女。だらしないが、どこか憎めず、自分の思考と行動を持つ男を女たちは愛し、諦め、愛想をつかす。

ホン・サンス『教授とわたし、そして映画』は2人+αの視点で3人の現在と過去を交錯させる。四部構成で、ロメールから引き継がれたテーマ分けは一部「呪文を唱える日」、二部「キング・オブ・キス」三部「大雪の後に」四部「オッキの映画」とされ、格言は使われていない。

一部は映画監督の男、教授、そしてここには登場しないがその二人と関係を持った女オッキの現在を見渡し、噂(=呪文?)と事実の信の選択がいかにして行なわれるかという問いを得る。伝聞によってもたらされた疑いを男は教授に直接向けるが、それらしい答えはもらえず、ただ仲違いするだけに終わる。煮え切らないまま、男の映画の上映後の質疑応答で自分にも新しい疑いがかけられてしまう。男が四年前に付き合っていた女(オッキ)の友人なるものが、男を詰問する。オッキは男と別れてしまったせいで廃人になった、男はその事実に対してどう思うのか、と。男は四年前には結婚しておらず、そのことを告げればその場はしのげたはずなのだが、そんな質問を公の場で、しかも映画の質疑応答の場でする行為を咎めるだけに終わる。

第二部は学生時代の男の視点で、オッキと教授の怪しい関係とそこに加わる男の関係が描かれる。男は強引にオッキにキスし、家の前で一晩中待って、ベッドインし、「付き合う」。セックス後のやりとり「ねえわたしたちって付き合ってるの?」というオッキの紋切り型に、好意を寄せる男は嫌がりもせずイエスと言う。その前にオッキは教授と一度寝ていたが、妻帯者である教授と「付き合う」ことはできない。友人の「自分を大事に」という忠告も紋切り型だが、そっちに嵌っていたほうがこの軽いお遊びよりはマシだっただろう。鈍感な男は何も気づかず、ただ浮かれている。

第三部は教授の視点で、大雪の後、教授が誰もこない教室で待っているとオッキと男がやってくる。その場で人生についての禅問答を繰り返した三人の中で関係が構築され、オッキと教授は仲良くなり、逢瀬を重ねる。男の映画に賞をあげるはずだったが、オッキと男の関係に疑いの目を向ける教授は、男と邪念のない関係が築けないという口実で、オッキに男から離れるように言い、賞を取り下げる。

第四部は女の映画で、男と教授を並列する。同じ山に登った経験を並べるが、先に行った教授との感覚(ここでなにしたあれした)+男といるときにもオーバーラップされる感覚(形のいい木の下で交わされた甘い約束)の二重化によりかなりバイアスのかかった比較になっている。こんな理不尽な比較がなされてしまう二人は当然別れ、現在では男は妻帯者、映画監督になり、女は廃人となった。一度寝た教授はいまも元気に暮らしている。

第一部で男にもたらされた疑いは間違いで、女の友人は教授と男を取り違えていたことになる、のか。男は教授と女の関係をまったく知らなかったから、その事実を説明することはできない。実際に「付き合って」いたわけだから、廃人化の原因を自分にみてしまうのも仕方がないのかもしれない。しかし、第三部を見ればわかるように女は明らかに教授との関係を引きずっており、その先に何かが起きて廃人になったのでは、と見るほうがより近いのではないかと思うが……女はその原因を認めず、あくまで男との関係に執着しているのか。女のことを忘れ去り、結婚し、映画監督になった男への怨恨か。第三部では教授への思慕を語っていたが…誰も真実を知らない。

単純で強引な馬鹿男はホン・サンスの男であり、それはこの映画にも当てはまる。今作では人の良さを見せるが、鈍感で、問題に気づかず、過ちを引き受けてしまう。ダウナー。

次作の『次の朝は他人』の男はそうではない。たしかに振り回され、強引なところを見せるが、女と観客を蠱惑する。『三人のアンヌ』では役目を終えた男から女へ。

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『教授とわたし、そして映画』ではシャブロルの『引き裂かれた女』の物語が想起される。

老成した小説家と若い美人ニュースキャスターとブルジョワ御曹司の三人。妻帯者である小説家は女と寝て、女がべた惚れしてしまい、深入りを避けたい小説家は国外逃亡。そこに非はあるようでない。始めからまともな恋人になれるはずもないのに、女はその美貌と若さでそれが可能だと思い込んでしまった、のか。素行不良の御曹司は強引に傷心女へアタックし、結婚まで。しかし、小説家の幻影が拭い取れないイライラと、沁みる傷のせいで小説家への憎悪が募り、悲劇へ。女とセックスするまでの小説家の洗練された動作と視線。価値がありそうな骨董品=草稿、シャンパン、猟師の視線、落ち着いていて押しつけがましくない物言い。それは、教授には見られない。強いて言うなら教室での禅問答だろうが、それは経験によるくだらない断言で、まったく役に立たない。教授の言うとおり、彼は教師に向いていない。オッキが教授に惚れてしまう部分には、年上の大学生が大人の男に見えてしまう女子高生の安易さのようなものがあって、観客はこの映画の登場人物の誰にも入れ込むことはないだろうが、その平凡さにがっかりし、そんなことで崩れてしまった彼女の現在を想像する。

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そんなことでは崩れないのがかぐや姫だが、声が言葉と絵と合っておらず、残念だった。しゃべらせすぎで、そこには監督・脚本家の顔が透けて見える。独善ー独占的おしゃべり。思い入れが強いというのはよくわかった。金をかけまくって大事にしすぎた娘。

本筋の物語と制作過程が合致しているのは偶然ではない。母よりも翁が中心にあり、女はただ受けいれるだけの存在で、不平をもらせば強制的お別れか連れ去り。翁のかぐや姫への愛が如実に現れる「ひーめ」と「たけのこ」のフーガ… その情動はそれは見事に高められ、すべてが調和し、笑顔と涙が見えるが、その後には凡庸な欲望と苦悩しかない。

苦しみと欲望に対して説教くさい自然讃美や生の歓びを置く、凡庸な子どものためのおとぎ話。

物語に重きを置いていることはかぐや姫の言葉を聞けばわかる。何もかも説明してくれる。

比喩を大事にしない男たちに対して怒り狂って鬼のように駆けていたまでは素晴らしかったが、花見を最後にふさぎこみ、戯れ言ばかりのたまうようになってしまった。ついには物語の理由までネタバレしてしまう。

語らせすぎたせいか、肝心の捨丸との再会のシーンのどんくさくなってしまう。坂を下る捨丸が野原に座るかぐや姫を発見→かぐや姫が捨丸のほうを見る→捨丸のびっくり顔→再会の駆け寄り。捨丸のびっくり顔という必要性のないものを挟みこんでせっかくの速度を落とし、それを補うかのように空を飛ばせてみたが…恋人たち二人が手をつないで空を飛ぶなど…シャガール好きの日本人… 『ムーンライズ・キングダム』のカップルの無駄のない簡潔な出会い…

実際に見せなければならない。老人の遺言などどうでもいい。