夢遊の人々 / ザ・マスター / イノセント・ガーデン / 風立ちぬ

夢遊する救い と ブルジョワの官能 と 物語の救いのなさ。

 ブロッホの著名な小説だが、帯にあるような全体小説ではないように思う。作者が「私」として登場することや、その登場人物たちが作者の下に置かれていることが明文化されること、アフォリズムが随所に挿入されていることなどクンデラが参照した、というのは一読して明らかである。ただブロッホのほうがユーモアは少なく、クンデラのほうが笑える。一冊の本としては特異かもしれないが、一つ一つの物語は伝統的な小説に則ったものであり、特別なにか変わったこともない。出てくるのは愚か者ばかりで善人は少なく、めんどうなやりとりが行なわれる。そのめんどうでどうでもいいようなやりとりのなかで出来事が加速し、いつのまにか違うところに行き着き、そこで何の選択もせずにただ救済とは何かを知る。ベートーベンの「そうでなければならない!」という啓示=救済は訪れてくれただけで、それが間違っていようがいまいが、出来事を押し進めてくれる。今、停滞あるいは沈降していく者たちはそれを待っているのであり、それを手に入れるためにはとにかくめんどくさくても生きていかなくてはならない。何の歓びもなく苦痛ばかりで、気持ちの悪い他人に囲まれている「夢遊の人々」は頭を休めず、たまに感情的になりながら資本主義的選択や自らの倫理に則った選択をして救済や何やかやを知り、緩やかな線を描いて消えていく。第二部の女子プロレス興行を企てて生計を立てようとするエッシュはかねてから思慕を寄せる行きつけのカフェの女店主と性交し射精したあと、それを知る。

もはや彼女ではなくて、再び贈り与えられ、未知のものから勝ち取った母のような生命としての彼女を所有したいと憧れ、またその限界を打ち破り、その自由の中に消え、潜って行った自我を抹消してしまった。なぜなら善と正義を求める人間は絶対を欲するからであって、エッシュは初めて知った、問題は快楽ではないことを。むしろ偶然で、もの悲しい、それどころか見すぼらしいきっかけのはるか上に高められている合体であり、それ自身無時間的で、時間を止揚している、一つに結び合った消滅が問題であることを。そしてまた人間の再生は万有の如く静止したものであるが、それでいて万有は小さくなって、彼だけの固有の権利であるものが彼のものになるようにと彼の忘我の意志がそれを征服した時、彼のために完結するのである。つまり救済なのだ。

 女店主はそれを知らないが、エッシュはそれを知る。二人で行なわれた性交で一人が救われ、一人は救われない。二人ともが救われるためには二人して同時にそれを知らなければならないが、密な対話でもそれは果たされず、決してそれが起こることはない。独りよがりの完結しかなくとも、そこには善も悪もない終わりの感覚とその後にのびる無時間的な生が残る。醜い現実から救ってくれる、目には見えないものを見つけたとき、それぞれの物語は終わる。

『ザ・マスター』の男2人は性交しないが、対話と抱擁で時間を進め、腕力と共同体で妨害者を封じ、やがて疲れ切って別れるが、ホアキン・フェニックス演じるフレディは汚れた狭い一室で道行きの女と性交し、笑う。そこまでの紆余曲折の過程で得たものは力ない笑いではなく、疲れを忘れる朗らかな笑い合いであり、ここでも物語は終わる。檻の中から帰ってきたフレディと待ちわびたマスターが芝生の上でじゃれあいのなかに生まれた笑いはすでに過去のものだが、これから延々と続く死までの無時間のなかでは常に輝点として現れる。かつて愛した女への幻想は現実の認識とともに消え、新しい笑いがとってかわる。

 パク・チャヌクの『イノセント・ガーデン』のお話は現代に蔓延る数多の問題のひとかけらも見せず、『甘い罠』や『悪の華』などシャブロルの諸作に通ずるブルジョワサスペンスをハリウッド入りしたパク・チャヌクが引き継いだように思われもしようが、ユーモアはほとんどない。性格の歪んだ登場人物たちが好き勝手に人を騙し、殺し、快感を覚える。ミア・ワシコウスカ演じるインディアは若く、同じ血と力をもつ叔父チャーリーから教育を受け、それを殺しによって区切り、冷徹な微笑みを見せる。フィリップ・グラスの曲を叔父と連弾するとき、首が折られる瞬間を見るとき、インディアは未知の快楽を知るが、快楽以上のものはなく、その中毒性から抜け出せないまま終わる。異様なチャーリーによる教育の過程は目に見えるものとしてハードなものではあるが、極限からは程遠く、仲睦まじさすら見せる、まるでガス・ヴァンサントのハートウォーミングな『小説家を見つけたら』のじいさんと黒人の若者のやりとりのようなもので、ミア・ワシコウスカが連弾によって漏れる液を止めんとして股を締め、妖艶な吐息を聞かせても違和感はない。

 遺伝子や血による同じ能力、それは甘美な同一性の幻想を惹起する。聞こえるはずのない距離から声が聞こえる、無意識的にウィトルウィウス的人体図的動きをやる、殺し好きうんぬん、愛する者と同一性をもてればそれは悦ばしいことだろう。殺された父との思い出か、教育してくれた猟奇的な叔父か、インディアは選択を迫られたが、どちらを選んだにせよ、同一性から抜け出すことにはならない。『イノセント・ガーデン』は物語として終わっていない。救いの有無ではなく、いまだ時計の針が漫然と進んでいるからである。
 
 退屈な物語ではなく、物語はすでに退屈なのである。『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』にあった起伏に富んだ物語は消え、ブルジョワの退屈な家庭のお話のなかには快楽しかない。彼らは退屈の中で快楽への飽き足らぬ欲望を持ち、それを見つける。連弾、自分の腕による首折、性交、発砲、云々。これらとて幾度となく見せられてきた要素ではあるが、映画は成立し、終わる。

 『イノセント・ガーデン』の前に流れてきた、短命の少女と夢見る少年の人生のお話を映画化した宮崎駿の『風立ちぬ』の予告編を見て泣いてしまったのはもの悲しい、純粋風の物語を予感させたからか、ユーミンの「ひこうき雲」のせいか、よくわからないが、物語はどんなに凡庸であっても人を感情的にし、引き込む力をもっている。それが映画であろうと小説であろうと、やはり物語は求められる。生きているのか死んでいるのか定かでない人物たちによる小説を書いたベケットでさえ、フォンターネの『罪なき罪』のような普通の物語が書ければよかったのに、と言う。ヌーヴォーロマンでも物語は死ななかった。『物語は小説に任せておけばいい』と放言し、物語を無視しているかのようなゴダールも映画の中で物語、物語、と執着する。いい話はいい話で消化され、涙を流させ、人を過去へ引きずり戻し、その話を知る前とは違う状況へ持ち込む。現実は何も変わっておらず、また同じような日常が繰り返されるが、ほんのちょっと変化がもたらされている。すぐに忘れられることが大半であろうが、物語の効能はたしかに存在するのかもしれない。大衆を形成する個にもそれぞれの物語がある、こんな紋切り型がナイーブな響きをもつのは大衆として、社会の都合のよい歯車として扱われる人間たちの悲哀が滲んでいるからか。その物語はたしかにそれぞれの違う人間たちの関係、言葉、仕事、出生などから派生する個別のものなのだろう。まっすぐに線が伸び、誰に操られていても知らぬまま進む人間はそれだけで悲喜劇であり、面白い物語を生むかもしれないがほとんどが退屈である。

 また退屈に戻ってくる。この退屈さはその人生という物語が安定していて予定調和でどこかで聞いたような代物であるからであり、現実であることから生じる。現実であり、共感して泣ける、自分に似たような物語を求めるなら小説や映画なぞ見ずにカフェや酒場に言って人と話していればよい。現実は悪夢であり、物語はその現実をぼかすソフトフォーカスのレンズであり、現実の救世主はイメージだけ。糞みたいなハッピーエンドを押しつける、強度ゼロのフィクションは現実に頬を寄せている点で救いようがなく、求められるのはただのイメージである。絶えずイメージを創りつづけること。物語では現実に抗えない。反体制のプロパガンダは過激な言葉に依っているようだが、弁証法的な物語が骨組みとして大衆に嫌われる小難しい言葉を支え、新たな出口を探るが、大きな物語に敗北していつしかナイーブな個に逆戻りしていく。

 元からただの一人であり、一人を救う有効な物語など存在しない。救うものは物語ではなく他人であり、他人のものから得たイメージであり、自らの想像である。たしかに気持ちのいい物語は存在し、それは中毒の元となり、同じような物語が消費され、いつのまにか時間が過ぎる。それも現実への対処法であろうが、アル中に近しい忘却であり、時間は相変わらず真っすぐに進んでいる。大衆。

 ベケットの人間のように疲れ切るまで言い続け、やり続け、彷徨いつづける、ベーコンのように徹底的に物語を排除する、ペソアのように夢想する、見よう見まねでも物語よりはマシだろう。


不安の書

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マーフィー

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Stoker

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夢遊の人々 上 (全2巻) (ちくま文庫)

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新しい小説のために (1967年)

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