『ムーンライズ・キングダム』『フォーエヴァー・モーツァルト』『ホーリー・モーターズ』『ザ・マスター』

子どもと大人のためのおとぎ話 と 運動の終焉 と 男の抱擁。

ゆるく、小気味よく、たんたんと、たまに感情的に言うべきことを言う登場人物たちとともに、やはりおとぎの国のおとぎ話を物語る。これは映画だから、と言って切り捨ててしまうのはもったいないというか、観る意味がない。ウェス・アンダーソンは常に退屈と現実を気にかけている。

だらだらと何の変哲もないナレーションを聞かされてそのあとに忠実につづく映像を観るぐらいなら家で小説を読んでいるほうがマシだ。物語外ー作者の視点からなされるナレーションはなくなり、物語内の赤い帽子を被ったおじいさんが島の説明と緊急天気速報を述べるだけで物語自体はエンドロールの音楽のように途切れなく流れ、明確な終わりで終わる。外からの説明は最小限に抑えられており、『ダージリン急行』における登場人物たちの説明的会話もほとんどなく、親戚と警官・教官の電話やサムとスージーの内面描写、出会いなど、言葉で聞かせるのではなく映像を見させる。「わかりにくかった」といった感想はそこに起因するのだろうが、もう一度観ればより楽しめる、はず。本作は「文字通り見せる」という姿勢が最も強く現れているように思われる。

内容を鑑みれば1時間半は短いように思われるが、物語を語り聴かせるうえで重要になるのは余剰部分の切り捨てであり、要素選択であり、そこが欠点でもあり美点でもある。なぜ見せないのか、傷心のビル・マーレイがモロイよろしく斧で木にやつあたりするところと子どもたちの決闘、ふつうの映画なら見せ場であるはずの決闘を見せないのはそれがおとぎ話にはふさわしくなく、より面白いバイクの使い方と対照的な死を見せるためだ。

彼らはその死を前にして、感動するようにつくりこまれたテレビの映像を見てあー、うー、おーと低い唸り声を上げるようなアメリカ的テレビ人間の反応はせず、冷静にその死を受け容れようと会話を交わす。「わからないけど死ぬことはなかった」。子どもだと思い込んではならないとわかっていながらもやはり可愛らしい純朴さに頬を緩め、対比的に罵り合う大人たちを見てしまうが、本作では大人も子どもも互いに二面性をもっており、溶け合っている。子どもにのめりこんで大人を罵倒するでもなく、やっぱり子どもは・・・といって蔑視することもなく、大人と子どもの対比は最小限に抑えられている。『少年と自転車』において社会的弱者として扱われた孤児はおらず、サムは孤児であることを盾にとることはしない。隊長と警官はいくらかサムに同情するが、それは不可避であろう、あくまで固執するのは忠実な労働従事者たる福祉さんだけ。

本作では絶対に必要とされるラブシーン。極端なズームアップで他の物は見えなくなり、海へダイブしてさらに現実離れし、浜辺で踊ってさらに二人だけになり、なにかを伝えるためにプレゼントを贈り、二人だけのムーンライズ・キングダムでキス。ロマンティック。その後、スラップスティック

ムーンライズ・キングダムは忘れられない場所として絵となり、前より格段によくなったささやかな日常のなかでふと足を止めさせる。その視線には感傷も不満もなく、過去との断絶もない。わからなくなったときはそこへ戻ればいい。おとぎ話は現実を変える。



かつて大人のためのおとぎ話を語ったゴダールによる『フォーエヴァー・モーツァルト』の人物たちは物語を構成することなく乾いた散弾銃の音で消える。『ウィークエンド』で批判したわけのわからない陰鬱な現代音楽の旗手ECMのビヨルンスタド「Sea」のワンパートが繰り返し、冬の薄青の風景、紅潮することのない白い肌に被さる。死の色は濃く、微笑みはあっても笑い声はない戦場を変えようとする哲学が語られる。いつ死ぬかも知れない不安、ペソアの「不安の書」が引かれる。

「その緩慢で空虚な時の中、魂の底から思考へと上がってくる。全存在の悲しみが、すべては純粋に私の感覚であると同時に、まったく外部にあり、私の力では変えられないものであるという苦みが」
「ああ、私自身の夢は何度、ほとんど現実として私の前に立ちはだかるのか。現実に取って代わるためではなく、私がそれをも拒むという点で、それらが突然外から私に生じるという点で、どれほどそれらが現実に似ているかを私に分からせるためだ」

夢にまで浸食してくる現実。夢には二種類あるといったのはボードレールか、日々のどうでもいい些事、気にもとめたことのない人、嫌悪の対象らがごちゃまぜになったものとあまりに非現実的で脈絡もなくすぐに忘れ去られてしまいそうな一瞬の夢と。その区別は戦争と大きな抑圧の前では曖昧になる。どう考えてもそれらは現実的ではなく、とち狂った夢の残骸でしかないからだ。静かに枯れた森の中を戦車が大きな音をたてて前進し、衝動的に構えられた散弾銃の乾いた音が響く。時代遅れと思ってしまうような軍服、だらしない軍規。感情のない顔をした男は二人の服を脱がし、ケツに指を入れる。

暴風吹き荒れる外で何度も台詞を繰り返す赤いドレスを着た女を窓越し、画面越しに見つめる。ウィは肯定のそれか、強制か。何よりも困難な肯定。それに比べて皮肉はまだ楽で、現実的だ。



カラックスの『Holy Motors』は皮肉のオンパレードだがその境界は曖昧だ。老衰を前にした真面目くさった回想を馬鹿にしつつも、女はベッドに突っ伏したままだし、男は共に熱演したその女の名を尋ねる。「我々の気力を挫く、あの見え過ぎる」死を嘲笑しているようにも見えるが、その後のジーン・セバーグの飛び降りでは嘔吐してしまうし、死を皮肉ることはできない。そこを抜けて死に向って叫ぶ生があるとすればボディスーツ男女とメルドーか。墓のうえに置かれた献花を食い漁り、引用する指を食いちぎり、美女の腋を舐め、その膝のうえで眠る。道中を邪魔する奴は華麗な杖さばきでなぎ倒す。

中盤のミニカーを運転する中年男は説教する「罰はお前がお前として生きることだ」。批判は批判として。ダサめなポップスを聞いて煙草をふかす親父には甘言と批判しかしない。

ブルジョワは憎しみの餌食に。浮浪者は罵詈雑言ばかり。中流はキッチュなネオンライトでペット同然の他者と抱き合う。

ミュージカルはオマージュなのか、悪ふざけなのか、太ももにしか目がいかなかった。

死ぬ身である運転手は憎悪に駆られて銃をぶっぱなした男の許しを請う。死を知らず演じる男はそんなことはしない。

構成が尻すぼみになってしまったのはタイトル『Holy Motors』のせいだ。カラックスはヌーヴェルバーグ周辺や偉大なる映画に存在していた行動イメージの消失に対する嘆きを、いずれ捨てられる鈍臭いリムジンに託した。



ポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』はより人間的、よってアメリカ的であったが、すべてが煮え切らず、登場人物が疲れ切っているあたり、ベケットの小説の登場人物のようでもあった。場面の切り替わりが唐突なのは彼が尊敬するアルトマンから引き継いだ部分だろう、『Holy Motors』の始まりと終わりの連続、変身の連続ではなく、変えるのが難しい個人の時間を薄く引き延ばし、幅広にして見せつける。

ホアキン・フェニックス演じるフレディ・クエルのトラウマらしき過去はなんてことはなく、戦争のせいでドリスという若い女と別れてしまったせいでセックス依存症、アル中になった中年男である。ホアキン・フェニックスの不自然な猫背が不気味であり、その重みでたわんだ身体から突発的な暴力が生まれる。精神分析的手法であるプロセシングでまばたきをせずに強制的に質問に答えさせられ、感情もその開かれた瞼と同じく極限まで高められ、図らずもまばたきをしてしまって己の頬を数度叩くフレディ、というよりホアキン・フェニックスに圧倒させられる。自分のせいではないが酒で老人を殺し、戦争で誰かを殺し、ドリスとははなればなれ、友はなくひとりぼっちでさすらうだけの男がようやく何か手がかりを見つけて嬉々として「自分」に対する質問を促し、自らを罰する。そしてその願いは叶えられ、教祖のドッド(ホフマン先生)は好意的に受け入れ、生活を共にする。ドッドの家族が異常なまでに世間体を気にするのに対し、フレディは人目を気にせず、林檎を投げつけ、夜な夜な殴り込みを行ない、ドッドに反するものをなぎ倒そうとする。ドッドはその中庸に位置し、家族の意見も受け容れつつ、フレディを匿い続ける。

何度も行なわれるがっちりハグ。誰も隙間に入れなさそうな。

警察に捕まったフレディがトイレや壁を蹴りまくり、ドッドが宥めようとして怒鳴り散らす。感情だけではなく理性だけでもない新しい怒鳴り合いはおもしろい。そのあと、釈放されたフレディと先に出て待つドッドが芝生のうえで抱き合い、転げ回る。気持ち悪いが、異常な二人の友情ではある。

明らかにドッドのほうは洗脳、教条への熱狂的献身というか、そちらに乗っ取られてしまっており、よくある気持ちのよい友情はない。家族の忠言によってフレディを洗脳していく過程はおぞましい。閉じられた空間であらぬイメージを吹き込まれ、支配的な過去のイメージに対しては無感情を迫り、指示されたものしか見えないようにする。フレディではなくドッドの奴隷へ。しかし、ドッドにそのつもりはなく、ただ間違ったことを正しいと思い込んでしまったばかりに正しい友情を守ることができなかっただけである。家族とのディナーの場における博愛主義的な発言は嘘ではない。フレディを洗脳して教団員の一人に仕立てようとするのは妻や娘、その婿であり、ドッドではない。

フレディは逃げ、ドリスの家へ行き、辛い現実を聞かされるが、それを受け入れ、ドッドに別れを告げ、一人になって女を抱く。

とにかく二人、いつ殺されてもおかしくない雰囲気を醸すフィリップ・シーモア・ホフマンホアキン・フェニックスの顔。ホフマンのほうには常に不気味な気色悪さが漂う。裸の女たちと踊る、遠くに行くフレディに向って名を叫ぶ、笑いをとろうとおどける。いきなり怒り出すところは共通だが吹っ切れていないところあたりが不完全燃焼で、怒鳴られた教団員の女の怪訝そうな顔がそれを物語る。

ホアキン・フェニックスの孤独な中年男は多くの人々の共感を生んでも良さそうなものなのに、その感が希薄なのは着地点の見えない欲望のせいか。彼はいったい何を求めているのか?ドッドの妻が言うように救済を求めているようには見えないし、更正しようという姿勢もない。アルコールは必要だが女は不要になったのか(家を去ってからは求める)ドリスさえいればよいのか・・・ドリスの末路をその母に聞いたときの表情は悲しげだが、共感は求めない。

生に疲れた男の歓びは一見どこにもなかったように見える。ドッドとともにいてもドッドを否定する言葉には敏感に反応してしまうし、その結果ドッドに窘められる。戦後、唯一自分の道具として扱えるようになったカメラを使って、嘘と同義である幸せそうな家族の、偉大さを見せつける影と光の肖像写真を撮ることもドッドの妻に「いらない」と言われてしまう。

最後、全然うまく機能してこなかった思考が借り物の道具によって白いシーツのうえで動き出す、その笑いはたしかに明るくはないが、暗くもない。自分の頭で考えるにはあまりに単純かつ残酷な戦争労働、考えたくもならない別れた女の現在、酒、無骨で同類の同輩たち、そんな環境から誤ってはいるが思考することだけを生業とするドッドの生活へ。メルドーのように、自分の欲望を直接表出するには疲れすぎており、ドッドへの歪んだ友情によって、あるいはトラウマの根源たるドリスによってでしかもたらされない。

アルトマンの『三人の女』においてモチーフとして何度も登場する半獣の絵のように、船のモーターによってかき混ぜられる様々な青と白の海面が現れる。荒野のうえを一直線に進むバイクとともに目的地へ向けて進む船は常に過去を揺り動かしているが、このかき混ぜは無思考のままであれば改変され、忘れてはならないことが忘れられ、洗脳や無思考に利用される。フレディとドッドの出会いは「よき出会い」であったか。「あの出会いの意味がわかった」そう言うドッドは説明しない。おちゃめなおじぎをして入ってくるホアキン・フェニックスに『On a slow boat to china』を歌うドッドは相変わらずその歌詞にすら共感させない。フレディは笑う。出会いは、最後の選択をさせるためか。


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ドッドにはいく度も仰角が用いられたが、赤らんだホフマン先生の顔はいつつぶされてもおかしくなかった。それを守ったのがとにかく皺の深いホアキン・フェニックスで、ふざけた映画『容疑者ホアキン・フェニックス』においてテラスで酒をあおり、遠い目をして何もしゃべらない顔がドッドの話を聴くフレディの顔にオーヴァーラップする。過去の物語自体は狂気も孕ませそうにない凡庸な戦争物語だが、あの顔はそれ以上の苦難を物語る。



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