ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』

もう何度見聞きしたことか、おとぎ話。

『謝るのは苦手だから謝らない、だが謝る、すまなかった』偏屈でメタボなうすら禿親父が。何度観ても泣いてしまうのはこんなおとぎ話のなかにあるからこその、死であり、私はそれをどうやって見ればいいのかわからず、泣く。

楽しく、喧嘩し、結ばれ、離れようとし、出会う、いたるところにある二人が。

ポップソングが軌道を違わず感情を連れて行く、おとぎ話。波に合わせて上下するボロ船に乗る友人たち、それぞれがそれぞれの仕事を持ち、たまに寄り合って話し合う。子どもみたいに利己的でたまに勇敢な船長より優秀な母と子は中心にいるようだが、誰が欠けても代わりは見つからない。代わりが見つかるのは労働の世界だけだ。

楽しい世界、金は付きまとうが盗みでも偶然でもいい、ボンボヤージュと言われても、おとぎ話は終わらない。なぜそんなに焦る必要がある。わからない。カフカブランショリルケも性急さを糾弾し、忍耐を教える。無常は耐え忍ぶこと、水平線がひっくりかえるまで待つこと、ビル・マーレイは待たずに最短ルートをとったがために貴重な船員を失う。最短ルートは楽しくない、すぐに終わる。ぐるぐるまわって漂着してまた流れるのが楽しい。

メルシエとカミエはまだ待ちつづけている。しかし、もはや何を待っているのかすらはっきりしなくなってきた。奇怪で色とりどりの魚かクラゲか、再び敵として刃を交えることか、次は友として讃辞を贈ることか、ただまた会えさえすればよい。わかりきったことだ。

『苦しみ、愛、違う愛、しあわせ』また終わるためにベケットはこのどうしようもないほどありふれた、糞面白くもない単純な、しかしそれゆえ不可避の言葉と概念を思い返し、窓辺に佇む。手遅れとは何と悲しい。それ以上に悲しいことはあるのか。もはや考えても、話しかけても、何も返ってこない。砂浜に漂着して死体を抱きかかえて、いったいいつ何をどうすればいい。

自分の悪口を聞いて拗ねて投げ捨てたピアスを片割れが拾ってくる、私たち二人は『ならんで立つ二本のポプラの木の会話にも似て絶ゆることなき』対話をすることができたのに、なぜもう手遅れなのか。息子ではなかった息子がもう死んだとでも?海のなかに葬られたとでも?またすぐに出会うだろう。私たちは決して、どんなに頭を振ってみても、似たような色で上塗りしようとしてみても、忘れることができない。それはこれまで生きてきたものとはまるで違う生だったからだ。関係性の定かでない者の死は、この現在の重みは、どれだけ重くなっても、この信じられないほど際立っている、無時間の、しあわせな生を押しつぶすことができない。この相異なる二つの生は垂直にも水平にもなりえず、困惑させる。断絶はすでに生まれていたのだ。あの二人が出会った瞬間から。

一人は常に間違いで二人になってようやくまともな思考が始まる。一人で間違いを積み重ねるのはもうやめてほしい。もちろん私のためでもあなたのためでもないが、それはあんまりよくない。私の存在理由が、もしそんなものがあるとしてだが、というか、私の存在理由はあなたが間違いと齟齬を恐れて入り込む沈黙を前にして生きていくことだと思っているのだが、ああこれもたぶん間違っている、しかしそれも言ってくれればすぐにまた始まるのだ。また終わるためのおとぎ話が。



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