ホン・サンス『次の朝は他人』『よく知りもしないくせに』

もはやお決まりといった二部構成の『よく知りもしないくせに』は長過ぎた。『次の朝は他人』の80分が適当。後者は仕事の疲れがあっても眠くならないだけの緊張感があるが、前者はそうは思えない(笑えるけど)

もういい加減、予告編とかチラシに新聞社のくだらない一文をのせるのはやめたほうがいいと思う。『次の朝は他人』は「愛の真理に到達する』ことなぞ目指していない。「愛の真理」を知っているお前が紙面上で語ればいい。

『次の朝は他人』にはいつもの軟弱でおとぼけた男はおらず、そこそこかっこよくてピアノが弾けて頭もよくまわる映画監督(これはお決まり)がジャン=ピエール・レオの大人版のような言動を見せる。一人目の女は男にとって都合のよい馬鹿な女であるかのように見えるが、そうではない。そういう紋切り型は今作にはあてはまらない。主人公の重い告白は酒に酔った勢いでしかないし、朝の軽いお別れはすぐに重い押しつけ言葉に変貌する。この変奏は恋愛におけるありきたりな流れであり、それはもう限界に達していて面白いところなど、どこにもない。

二人目はおそらく主人公がかつて愛したたった一人の女のそっくりさんで、主人公はどうにかその女と懇ろな仲になりたいと思い、ピアノを弾き、外で待つ。偶然ではなく必然としてそうなるようにしたことといえばピアノを弾いたぐらいだが、女は言葉上は偶然として(餃子がない)外に出てきて、まぁ、いいシーンが現れる。『百年恋歌』で雨が降り、同じ傘の下で繋がれる手のようなキス、恋愛の到達点が見えて、次の日、また同じ場所で同じシチュエーションで男は女を一度は見送っておきながら結局ついていき、女の試す言葉か誘い文句か、知らんぷりを目の当たりにした男は強引さを見せて、部屋に入ることができる。駆け引きと言ってしまえばそれまでだが、あからさまではなく、先輩によって周到に置かれた謎によってさらに謎が深まる女の言葉、身振りがある。退屈はさせない。そしてその恋愛を終わらせる朝の三つの約束、寒さが勝るあっけない別れ、感傷もなし。

語るのであれば文字通り見せなければ何にもならない。先輩は言葉を過信しすぎたために女の弱音に無神経な説教を浴びせる。もう恋愛はうんざり、という主人公は律儀に「もう会わないほうがいい」と言い捨てる。女は感情的に語り、訳もない占いに引っかかるが、それすら信じることはできない。先輩はそれを真に受けてくだらない説明を施し、わかりきったことを聞かされた女はそれを無視し、怒る。『多情』という言葉どおり計り知れない蠢きが存在しているのに、男たちはそれにもっともらしい説明を与えて納得することしかできない。女の言葉と動きは怒声と「腕力」でねじ伏せられる。本作に出てくる女たちは男に都合のいいように設定されているかのように見えるが、設定ではなく現実として男たちは知らぬ間に力を使っているのであり、ホン・サンスはそのような感情的で無知な存在としての女たち、理性的なように見えて結局社会的な、立場上の、肉体的な力に頼っている男たちを批判している。映画は撮っていない、金のためか自分から進んでかそれはどっちでもいい、と言う主人公は恋愛映画ばかり撮っているくせに恋愛を密かに糾弾する。うら寂しい観光街の一角で写真を撮られた主人公は袋小路に迷い込んでおり、モノクロにしか映らない。

女と別れて男はぶらつき、見知った人からは忙しい、またな、と言われ、よく思い出せない人には再会を喜ばれ、物静かなファンに写真を撮られる。偶然はそこらじゅうにあり、そこから『小説』のような物語が紡がれる。しかしヴァージニア・ウルフが指弾するように物語とは作者に都合のよい要素を配置しただけの話であり、重要なものはそこにはない。たしかに雪のなかのキスシーンは素晴らしいが、それだけで喜んでいるわけにはいかず、偶然を必然に変えるだけの思考を獲得しなければいつまでたってもこのすぐに終わる物語からは逃れられない。主人公はそれがわかってはいるものの偶然でちょっとした楽しみを得てしまい、また同じことを繰り返して彷徨する。

ホン・サンスは恋愛ばかりを扱っているが、手放しにそれを賞賛しているわけではまったくなく、そこから言えることを分泌させる。他作と同様、二人の女が出てくるが、もはや主人公は態度を変えようとしない(「気まぐれな唇」では二人目を運命の人と思い込み、「よく知りもしないくせに」では過去の念願が達成されて一人浮かれる)。『存在の耐えられない軽さ』のトマーシュばりのゲームの規則を遵守し、また彷徨と思考に舞い戻る。もうそこにはいられない。


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