ゴダール『ゴダールのマリア』/岩窟の聖母

「右側に気をつけろ」「パッション」「カルメンという名の女」とゴダールのなかでも親しみをもって語られる80年代作品のひとつ「こんにちは マリア」、とにかくミリアム・ルーセルの美と自然美をうつした映像が賞賛される。

処女懐胎を枠として何の躊躇もなく女の謎へと向う。これまで不可解な者でしかなかった女が、この映画では自分の言葉で自らを語っており、その不可解さは感じられなくなっている。それは観客の視点からのことであり、映画内の男は単純でステレオタイプな性欲だけの輩として女を謎の存在として追う。男の理性による欲望との戦いというより、女に導かれて愛を知り、感情を殺す。

カメラの動きは少なく、カットと中の動きが映画を進める。「パッション」のスタジオや「右側に気をつけろ」の空のような流れではなくストーリーと映像の連関の中にモチーフとしての絵画的な美的な固定映像が挟み込まれる。太陽、月、草原、ハリネズミ、花、海、反射する陽光。

マリーは処女懐胎という事実と男の欲望に応えられない自分と自分の欲望とに挟まれて苦悶し、シーツにくるまって暴れる。唐突に始まるため意図された動きであることがわかってしまうが、ミリアム・ルーセルはその理解を超えようとする。それは車の中で「岩窟の聖母」のような横顔を露にして煙草をふかすところにも、性器をさらけだしたままベッドに横たわって天井を眺めるところにも見える。ゴダールの「顔」

このマリーとタクシードライバー、ジョゼフの物語と平行して、不倫する先生の男とその教え子であり不倫相手エヴァの物語が語られる。このエヴァの教室の窓際に佇んでいるときの顔の色はなかなか見られない、青白いでは足らない。2人はパラダイス荘(?)で密会し、やがて男が妻子のもとへ戻るといって喧嘩になり終わる。愛があるところとないところというのか、美しさをもっていても紋切り型に回収されてしまう悲劇というのか・・・

単純極まりなく知性を感じさせないジョゼフはマリーに向って何度も「愛してる」と言い、膨らんだ腹を撫でようとすると、マリーはノン、と拒絶する。そこに天使ガブリエルが現れてジョゼフを殴る。「なぜだ?」というジョゼフは滑稽である。が、ここでマリーは彼の愛を感受して一緒に子どもを育てることになる。

無軌道な大人たちはおらず、妊娠という事実にたじろぐ女とそれを認められない男がいる。魂(精神)と肉体の二元論というよりせめぎ合いはあのベッド上での苦悶、光に照らされた無表情に映る。不意に訪れた懐胎は悲劇でもあり喜劇でもある出来事であり、マリーはその狭間で悩み、ジョゼフはそれを支えるようになる。2人の天使が靴ひもを2人で結んだ共同作業のように。それはこのうえなく自然で美を讃えるものである。


ゴダールのマリア 完全版 [DVD]

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