クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』

退屈で凡庸な「ショコラ」の監督で認知されているのだろうが、本作そしてヴェンダースジャームッシュが絶賛する(彼らの助監督をしていたらしい)「ネネットとボニ」、ギャロ出演の「ガーゴイル」といった作品をもつ。

「ショコラ」のあと1994年に製作された本作「パリ、18区、夜(原題;J'ai pas sommeil )」にはあの「ポーラX」で衝撃を与えたカテリーナ・ゴルペワと「コーヒー&シガレッツ」で「相談はないのか?」と何度も聴かれる男、「リミッツ・オブ・コントロール」で謎の通じ合いを見せる依頼人を演じたアレックス・デスカスがでている。この2人が並ぶだけでも観る価値があると思うが、未だDVD化されておらずVHSで観るしかない。

リヴェット、ヴェンダースよりジャームッシュ、ウォン・カーワイ、エドワード・ヤンに近いと思ったのは単に「夜」があったからか、パリの街の色彩が台湾、香港に近しい淡い赤と青のネオンライトに浸されている。そこに微笑みを浮かべて佇み、歩き回るゴルペワがいるだけで映画は成立する。一方、ゲイの描写はVHSの関係もあって美的配慮がなされているようには思えなかった。様々な人種が集まる18区を扱うだけにテーマはそちらになるが、そこにゲイの要素も入ることでどこか類型的な単純化が行なわれてしまっている。

しかし、それは大したことではない。この映画でオリジナルなのはリトアニアからきたゴルペワ演じるダイガとアレックス・デスカス演じるテオであり、周りは類型化された人物たちである。ダイガはフランス語を満足に話せないながらもロシア語で男たちに罵詈雑言を浴びせる、負けん気が強い美しい女であり、おばさんたちと笑ってダンスを踊る優しい女であり、強盗犯の金を盗んでつまらないホテルの仕事から逃げ出す若い女である。どこにいても粘っこい視線に曝させる美をもってしまい、それゆえに利用しようとする男も出てくる。それはゴルペワ自身ではないか、と邪推してしまう。
もう彼女の美は見られない。

テオはジャズ・ヴァイオリニストで子どもが一人、奥さんとは喧嘩中。金に侵されたこの歓楽街から抜け出してカリブ海の孤島マルティニクで三人で暮らしたいと言う姿は滑稽な可愛らしささえ漂うが、奥さんからしてみればそんな馬鹿な話はない。移民の出戻り問題は「サウダージ」のブラジル人たちと同じであり、やってきたものの環境の変化(子ども)や理想と現実の食い違いにより引き起される。奥さんは怒り狂ってプレゼントを窓から放り投げたりテオになぐりかかったりで(ガーゴイルにならなくてよかった)テオはそれを何とか愛で、不器用な説得に努める。

しかし、そこにどうしようもない若さをもつゲイの弟カミーユが入ってきて物語が錯綜する。テオとダイガは関係を持たないが、カミーユにはお互いに接点をもつ。ボーイフレンドと援交相手をもつカミーユは出て行こうとするボーイフレンドを止め、おばあさんたちを狙って強盗をする。ここは大した説明もなく画面が切り替わるので衝撃的ですらある。首を絞められたおばあさんが生きていたときは笑えたが。

ダイガは演劇のプロデューサーに何度も電話をかけて会いに行くが、企画が頓挫したことを伝えられた挙げ句、身体を求められる。とにかく周りに現れる男たちは糞ばっかりで、恋愛など起きるはずもない。車を売ろうとして試乗している最中にそのプロデューサーを見つけ、ハンドルを強奪してバックから車をぶつけるさまは楽しい。

しかしやはり孤独は孤独のまま、どこに行っても変わらないのに出奔する。


ウォンカーワイにはむせかえるほどの恋愛の臭気が漂い、ジャームッシュには気の抜けた笑いと和やかな友情があり、エドワード・ヤンには叙情的な現代の光があった。クレール・ドゥニには世代を結ぶ笑顔のダンスと孤独、出奔がある。