ジーバーベルク『ルートヴィヒⅡ世のためのレクイエム』

アテネフランセで。黒沢清が絶賛してるためか、満員。アテネフランセは席取りを誤ると満足に映画が観れない。

19世紀中頃から終わりまでバイエルンの国王であり、ワーグナーのパトロンであったルートヴィヒⅡ世の伝記映画。民衆から盲目の信頼を受けつつも藝術に邁進し、政治は疎かになり、臣下の不信をかって死へ。

冒頭、洞窟で祭儀の装いをした女たちがこちらに向って語り出す、異様な始まり。そこからどこかの劇場、書割りの前に佇む王と臣下たちの物語へ。奥行きはないはずなのに俳優の配置によってはとてつもなく大きな空間を創出することができる。王の顔のクローズアップ(背景は黒)や煙をだす装置も一役買っている。

王の物語は民衆や側近の医者によっても語られ、そこでは色調が変わり、その人物だけのクローズアップで終わる。誇張された仕草と声で幻想性は増し、ワーグナーの壮大な音楽が白日の雪道の進行とともに物語を推進する。書割りから離れ、外の風景のなかへ。それは王が求めた自然だ。

王はやがて精神に変調をきたし、それに伴って映像も揺れ始める。「何時だ?」と尋ねても家来は醜い現状を伝え、どこかでは王の暗殺計画が進行する。長回しからふいにカットが切り替わり、王の顔を美しく捕らえるし、太った女の姿態も艶かしく映す。退屈する要素などどこにもない。言葉は空転することなく物語内で役割を持つし、無意味な映像もない。美しいのは白日の雪道、狂気を孕むのは衣装と蝋燭で顔を隠す王、大衆がこちらを見つめる背景、幻想的なオーヴァーラップ。

王の生前の再現映像、王を知る人々の語りーそこから派生する物語。それだけで伝記映画は完成する。しかし、ジーバーベルクはそれを退屈な伝記にするのではなくフィクションの効用と映像美、劇的な音楽で悪夢のような映画にしたてあげた。ラストは滑稽である。それは藝術に身を投じたルートヴィヒⅡ世そのものであっただろうか?ジーバーベルクの悪意であろうか?ヒトラーに繋がる滑稽ながら恐ろしい権力の象徴であろうか?