ゴダール『はなればなれに』

「軽蔑」はカラーだったが、本作と翌年の「アルファビル」は白黒となっている。日本での公開は00年代と遅れた。フランツとアルチュールという文豪の類型である2人の男と純粋無垢なオディールの三人の数日間、まだ物語を語っていた時代に撮られた本作はゴダール作品のなかで重要性は低く、ゴダール自身もそれを認めている。よく取り上げられるのはカフェにおける三人のダンスとルーブル美術館における疾走である。三人の青春とも呼べる刹那的な一瞬を見ることができる。

オディールに恋心を寄せるが真剣に伝えることはできないフランツとドンファン的なアルチュール、そんなアルチュールにまんまと引っかかってしまうオディール。「女」はいまだ力が弱く、「女は女である」のアンナ・カリーナ同様、男たちに馬鹿にされている。あくまで「男の視点」で撮られている。キスのやり方もわからず、舌をあらわに出してしまい、まんまと騙されているのにも関わらず友達と愛する人を得て喜びを全身に表す走り、なぜ愛するのか聴かれて結婚と答えてしまう馬鹿。紋切り型をちょっとひねった程度の造形だが、それを感動まで高めるのがアンナ・カリーナである。

逆に男2人はどうしようもない。フランツはアルチュールに振り回され、アルチュールは衝動的に動きすぎる。三人ともとにかく若いだけ。

友情も愛情も高まることなく、一瞬で瓦解する。繰り返しに陥ったダンスでオディールはまだ踊り足りないのに男2人は早々と切り上げる。家に乗り込んでからは男2人の横暴は情で留まることなく、殺しにまで発展してしまう。

本作について、本当にゴダールが言ったかどうか定かでないが、ゴダールの言葉がある。

「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は悪しきシナリオを生きているのだ」

単純な物語、どこにでもいそうな登場人物、彼らはゴダールの他の作品における登場人物とは異なっている。引用はゴダールが行ない、登場人物は多くを語らない。クローゼットに閉じ込められた叔母は窒息して死んでしまった。それは三人の過失だが、そうさせたのは世界であり、彼らに責任を迫っても何も変わらない。「悪しきシナリオ」から抜け出すためにはどうすればよいのだろうか?

生き残ったフランツとオディールは未だにそこから抜け出せていない。おもちゃで愛を確認したオディールが離れるかもしれないし、友を捨てたフランツがオディールをも捨てるかもしれない。愛はたしかに一つの方法だろう。しかし、それだけでは十分ではない。


はなればなれに [DVD]

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