青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

2005年。阿部和重中原昌也浅野忠信宮崎あおいというおなじみのチームで撮られた本作。人々を自殺に走らせるウイルスとそれを吸収し消滅させるノイズミュージック、その演奏家2人、過去の女、病人、その養護者2人、包括するレストランのおばさまが主な登場人物。物語の筋はわかりやすい。設定はSF的だが、こじんまりとしたセットと壮大な北海道の風景で順を追って説明してくれる。

序盤の浅野忠信中原昌也が音を採集して組み合わせていく過程にかけられた時間とアイディアで本作の音の重要性が示され、そこに探偵と金持ちお嬢さんの病が挟まれ、出会いでその音が中心にやってくる。演奏家二人はあまり言葉を発しないが、探偵の煽りにうんざりした中原昌也が棒読みで台詞を言い放ち、「死ね」と言い残して自死するところは意図していないだろうが、笑えた。あまりにちっぽけな死。男の友情といった紋切り型はなく、火葬しその音を録音する「不謹慎」な浅野は独特の方法で弔っているだけだ。ラストでは中原の墓参りをする。死による悲しみ、感情はなく、方法のための弔いといった感は拭えない。あくまで本作の「音」の説明のため、ストーリー上の便宜でもたらされた軽い死であり、表層的である。

一方、心配される孫、若く、無知な宮崎あおいは「自分が死にたくないと思うか」という命題を突きつけられ、苦悩する。その分、命は引き延ばされ、生きるために浅野の演奏を聴きに行く。小高い丘の草原に設置されたステージで浅野が空待ちし、宮崎あおいの目に黒い布を巻いて視界の自由を奪ってから演奏を始める。宮崎あおいは音に導かれて四方に置かれたスピーカーの中心に立ち、ノイズに身を浸す。それを見聞きする探偵は耳を覆う。カメラは自由に動き回り、ぐるぐると宮崎あおいと浅野のあいだを往還する。極端なあおりで映される浅野はウイルスを殲滅する英雄として、分身させられた宮崎あおいはノイズに身を浸しきり、闘争した勇敢な少女として示される。耳を塞いだ探偵は後に墓が見える平野でウイルスの手によらず拳銃自殺する。浅野は宮崎あおいのため、ではなくかつて目の前で投身自殺した恋人のために演奏する。中原が幽霊で演奏の様子を笑って見つめている短いカットが挿入されるが、やはりそこには男2人の間に感情は描かれず、浅野の分身に近い形で登場している。片割れがいなくなって浅野はどうするのか? 宮崎あおいはその後、レストランのおばさんと浅野のもとに置かれ、暮らしていく。浅野は一人で部屋の中で眠ろうとする。そこで雪が降ってくる。

生き残った者には季節が巡ってくる。

宮崎あおいが車の中から見つめる風景、太陽と海。青山真治が大好きなゴダールの『気狂いピエロ』のラストそのままだが、そこに合わさる台詞は生き残った少女の紋切り型の言葉であり、映像と言葉が繋がらない。退屈な言葉は美しい風景をも退屈なポストカードにする。

ショットや物語は学べても、脚本は先人に教わることは難しいのか、小説家でもある青山真治は紋切り型にも自覚的だろうが、カウンターでレストランのおばさんと孫のおじいさんが語り合う言葉は、鳥肌ものの気色悪さでうんざりさせられる。『東京公園』のラスト近くで依頼者である医者が主人公に語りかけるところと同じような語り口で、対話はなく一方的に自分の思うところ、人生観のようなものを語りかける。その言葉は映画内の相手ではなく明らかに観客に向けられており、酒場で酔っぱらった親父に絡まれているような場面へとすり替わる。

Eureka』が素晴らしいのは役所広司が身を呈して宮崎兄妹やチャラ男の話を聴き、説教し、ケツを蹴り出すからであり、その言葉に見合った美しい映像があるからである。本作は「映像と音」の映画だが、音としての声、言葉は無視されている。美しい風景と美しい音楽といった紋切り型から離れ、耳を聾するノイズを挿入したところは白眉だ。耳を塞ぐ探偵、地に倒れる宮崎あおい、薄ら笑いを浮かべる中原昌也、観客も彼らのうちのどれかになってあのシーンを体験するだろう。映画の始めから音をつくり、あのシーンに集約させるその勇気は素晴らしい。しかし、言葉の問題はまだ残ったままだ。


エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]

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