ジェームズ・グレイ『アンダーカヴァー』(We own the night)

ヌーヴェルヴァーグの登場人物が裏切りや死にも関連づけられることがないのとは正反対に、今日の映画では未だにそこへの執着が見られる。たしかにその限界には様々な葛藤があり、その葛藤は劇的でもある。しかし、やはりクリシェであることは否めない。新たなイメージなどない。

ジェームズ・グレイの物語はごく普通でほとんど予想を裏切らない。クリシェで始まり、クリシェで終わる(「トゥー・ラバーズ」では女は主人公から慰みを得るだけ得て元の愛人のところへ戻って行く)しかし、そのジェームズ・グレイの映画が日本で公開されるかされないかの瀬戸際にあるというのは理解できない。「トゥー・ラバーズ」の暗い目のラストはたしかにハッピーエンドから程遠いし、女を主人公のもとへ向わせてもよかった。しかし、そこに「アンダーカヴァー」にはないクリシェとの戦いがある。

アンダーカヴァー」では警察署長の父、その後を継ぐ兄、どうしようもない弟(ホアキン・フェニックス)という見飽きた三角形から始まり、兄の危機で弟が勇敢に立ち上がり、親父に認められたいという意志を見せ、重傷を負いつつも何とか名誉挽回する。可哀想なのが弟の恋人で、健気に弟と一緒に保護プログラム入りして危険な目にも遭いながらも隣にいてくれたのに、目の前で父を殺された弟は警察官になる、と言い出し、さすがの恋人も去って行く。最後は兄とともにマフィアのボスを殺して復讐完了。すっきりとした簡潔なストーリーでも、ヤクの工場に弟が潜入するときの緊張感は否が応にも高まるし、拳銃を撃ってくるマフィアとのカーチェイス、親父が殺される瞬間の不安定な揺れは冷静には見ていられない。しかし、その後突然警察官になる、というところで一気に醒める。兄に「お前の自由が羨ましかった」と言われた弟も実はオイディプスの罠に嵌められた不自由な子どもだった。そういう単純なものどもを無視してワンシーンワンショットの素晴らしさを見るほうがジェームズ・グレイには合っているのかもしれないが、ホアキン・フェニックスのラスト近くの顔がそうさせない。警察学校の卒業式で晴れ舞台に立つ弟は去った恋人の面影を別の出席者に見てしまう。その目は「トゥー・ラバーズ」の愛していない女との抱擁で見せる目と同じ、空虚な穴だ。


弟の最初のダブルバインドは家族がいる警察の味方か、マフィアの味方か。これは兄が撃たれたことで自然と警察の味方へ。次は恋人をとるか、父親の仇をとるか。目の前で父が殺された衝撃と募る憎しみから恋人は捨てられる。どちらも意識的な選択ではなく、片方の選択肢しか見えなくなる盲目的な選択であり、醒めたときに別のかつてあった選択肢が浮かんでくるような代物である。ジェームズ・グレイの登場人物はヒッチコックの登場人物に似ていて、ストーリー展開に見合った感情をもって決定していく。ただヒッチコックは過去の偉大な映画監督であり、それをそのまま今なぞっても新しいものは出てこない。ジェームズ・グレイの映画は完成に近いところまでいっている。だが、それは大したことではない。ヒッチコックの後にはヌーヴェルヴァーグがあったし、ネオリアリズムもあったし、ニュージャーマンシネマもあった。アメリカ映画はウエスタンやコメディやらの大ジャンルが崩壊しても変わらないし、イーストウッドスピルバーグのように相変わらず完成に近い映画を撮りつづけている。しかし、ジェームズ・グレイはまだ若く、そこには懐疑的なのかもしれない。それは「アンダーカヴァー」「トゥー・ラバーズ」のホアキン・フェニックスの目に見える。


アンダーカヴァー [DVD]

アンダーカヴァー [DVD]