ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」

 
アメリカでウディ・アレン史上最高の興行収入を記録した本作。そのタレコミ通り、毒は少なめで美しいパリの映像とノスタルジックなタイムスリップで観客を満足させている。

ウェス・アンダーソン作品に欠かせない存在であるオーウェン・ウィルソンが主役のギル・ペンダーを演じている。彼に早口で辛辣な大衆批判を行なわせることは確かにできない。おとぼけで独特の余韻を残す(へたれっぽい)口調でやんわりと毒を盛る。フィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイと会ったときの目を文字通り真ん丸にした顔で笑わせてくれる。

フィッツジェラルド夫妻、ヘミングウェイ、ダリ、ブニュエル、ピカソら1920年代の偉大な天才たちがギルの願望とともに現れ、ピカソやブラック、モディリアーニらの愛人となったアドリアナの願望によって1890年代に活躍したゴーギャンらが現れる。二人にとっての「黄金時代」を彩る才人たちも二人と同じく過去に「黄金時代」を見立てることを知り、ギルはその時代に生きる人たちにとっての本当の黄金時代は現代なのだと悟って現代のパリへ戻る。音楽で言えばセカンド・サマー・オブ・ラブの時代をうらめしげに懐古する者たちのように過ぎ去ったものはすべて偉大で自由で平和に思えてくる。それは現代にある「黄金」を見失う危険性を孕んでいる。この指摘は「ペダンティック」なポールがギルに浴びせたノスタルジー批判と大方同じことだが「問題」と「黄金」ではやはり語り方を変えなければならなかっただろう。過去のロマンチズムに逃げて「問題」を無視することは現代への無関心に繋がり「問題」の解決には至らないが、それは当人にとってはどうでもいいことである。過去の「黄金』さえあればいいのだ。しかし、現代にも同等いやそれ以上の価値をもつ「黄金」があるのにそれを見過ごしているとしたらそれはその人にとって重大な危機である。だから少し抜けているギルは20年代を通過しなければならなかったのだ。


ラストはやはり駆け足に進むが、レア・セイドゥ扮する古物商のガブリエルとの出会いからラストへの布石はうってあり、何よりもギルに向ってうなずき、微笑むレア・セイドゥへの光、背景の鮮やかな色彩は稀に見る美しさを感じさせる。恋仲になりかけたアドリアナも十分美しく映されていたが、アドリアナと妻との別れを通過して新たな現実を得たギルの前に現れるガブリエルは何よりも美しくなければならなかった。

この映画の特徴といえばやはり登場してくる芸術家たちであろうが、パリにゆかりのある芸術家たちというよりギルのルーツであるアメリカやなぜかスペインが中心である。ゴーギャンマティスロートレックはフランスの画家だが中心的な役回りを果たすのはヘミングウェイやダリ、ピカソでありその愛人のガブリエルだ。なぜパリなのか?美しく古い街並みが残る、過去を想起させる場所だからか?藝術の中心だからか。たいしたことではない。あと、哲学者も出てこない。哲学者の重苦しいイメージはこの軽い、小綺麗な映画には似つかわしくなかったのだろう。残念。


多くの人々に好意的に受け入れられるかどうかはわからない。ここに出てくる有名人たちは一般教養と言われてもおかしくないとは思うが、知らない人のほうが多いのではないか。アメリカほど日本では人気は出ないだろう。過去に入り浸っていては現代の「黄金」を見過ごしてしまうが、過去を知らなければより狭い現在しかなく、「黄金」など夢のまた夢であり、どうでもいい代物にさえ成り下がってしまう。名前を知らないからと言って教養がないとするのは悪の教養主義であって、どういう人物だったかなんて調べればすぐに見つかる。そこから先を知り、思考を重ねても「黄金」は見つからないかもしれない。しかし「黄金」の存在は知ることができる(たしかにそれはあったし、いまもあるかもしれない)


ウディ・アレンはいつまでたっても軽いままだ(もちろんいい意味で)