アキ・カウリスマキ「ル・アーブルの靴みがき」

朝日新聞の別紙グローブでも取り上げられ、主に中高年に好評を博しているようだ。新聞や劇場の説明文で「ハッピーエンド」やら「晴れやかな旅立ちの再生のラスト・シーン」などと言っちゃうのは勘弁してほしい。カウリスマキは案外ラストシーンに凝っているので愉しみにしていたのに。もう、その類いの文章は読まない。

アキ・カウリスマキも老齢に入っており、主人公のマルセル・マルクスも年金受給者並みの老体。カウリスマキはズームと引きを多用するため、ぶよぶよの白肌や深い深い皺を見ることになる。マルセルの妻アルレッティは「浮雲」などのカウリスマキ作品にも出ているカティ・オウティネンで、肉が垂れ下がり皺も増えている。夫のために化粧をするシーンは笑えそうで笑えない。女の子ならかわいい、と言いそうなところだ。ジャン=ピエール・レオの名がクレジットにあったので楽しみにしていたのだが、若い頃のすっきりした顔に紙粘土を無理矢理くっつけたようだった。相変わらずの身振りで笑わせてくれたけれども。

台詞を最小限に抑える監督だが、今作は難民の少年以外はみんなそこそこしゃべる。長回しというほどのものはないし、退屈させないよう気を配っているのかもしれない。カットの切り替わりには独特の間があり、突然場面が変わってもついていけるし。

マルセルと拘留所の責任者のやり取りや子どもの馬鹿正直さ、レオの仕草など所々笑える。

時々顔を出すクールな警官は途中で善人であることがわかり(本作に悪人は出てこない)、最後も子どもの脱出を助ける。その脱出には知り合い総出で助けを出し、微笑ましい。しかし、舟の上のくだりは必要だったか?握手して終わりでよかったように思える。しかも和訳がおかしかったのか、警官は部下に「階級に逆らうのか?」と笑えない言葉を浴びせる。そこで引き下がってしまう部下はいないだろう。子どもは不法入国をした違法亡命者であり、彼を助けることはもちろん法に反している。その警官が「階級」を盾にするとはなんともおかしな話である。

『法が公正でないとき、公正さそのものが法に先立つ』(「ゴダール・ソシアリスム」第三章より)

観客は皆、マルセルらとともに子どものロンドン行きを応援する。法は間違っており、公正な登場人物たちが大事。私もそう思う。しかし、「階級」という言葉には引っかかる。階級は「公正さ」からかけ離れている。警官は他の心優しい、人情に満ちあふれた(レオーを除く)人物たちとは最後まで違っていることが示されたのだろうか?情に訴えることができない以上、「階級」という苦々しい言葉にすがるしかなかったのだろうか?

その後、妻の「奇跡的回復」により二人は感動の抱擁を交わし、庭に咲いた「桜」で終わり。

すんなりハッピーエンドとは言えない。実際にアフリカの難民問題は厳然と存在しているが、遠く離れた日本にとっては馴染みの薄い問題である。しかもこの映画で描かれるのは日本人お得意の「人情」であり、簡単な幸せな再認識があるだけだ。カウリスマキは最後に桜をだすくらいだし、小津への敬意を表しているくらいだから日本が好きなのだろう。しかし、「人情」は危うい。関係性のもとに培われるものであり、裏切りと表裏一体である。映画の登場人物たちのように暗部のない明るい優しさを見せてくれる人ばかりではない。関係性と利己心の対決があり、自らの利益が勝ればすぐに裏切りは起きてしまう。当てにするには脆すぎる。登場人物たちのように日常的な交流によって築かれていくものであり、それは日本ではとうの昔に失われ、過疎化の進んだ地方ぐらいにしかない。被災地では同じような境遇にある人々が集い、会話し、「復興」という同じ方向に向かって進んでおり、強い関係が築かれようとしているのかもしれない。それは必要なものだ。しかし、「人情」は抽象的だ。閉じこもってカーテンの隙間から外を伺っていたレオは明らかに疎外しており、あの行動は自然なものだった。関係性のないところには「人情」はなく、強制もできない。


名作「真夜中の虹」で犯罪者を抱えた家族三人が真夜中の海に浮かぶ「虹」号へ乗り込んでいくラストシーンのように、本作の難民の子どもにも多くの困難が待ち受けている。残った者たちは変わりない日常に戻るのだろうか?


映画『ル・アーヴルの靴みがき』公式サイト