磯崎憲一郎「世紀の発見」/ 是枝裕和「奇跡」

大手商社マンながら芥川賞を受賞した磯崎憲一郎の長編、『終わりの住処』の前作『世紀の発見』が河出で文庫化されたため、購入した。『終わりの住処』を先に読んだのだが、唐突に出来事が起こり、登場人物はさして抗うことなくそのなかで生活を続けていく。それでもスラスラと読めてしまうのはその場面場面が限界まで書かれているからであろう、都合のいい設定や説明はない。

『世紀の発見』では幼少時代の小さなエピソードや強烈な印象体験が母の存在へと結びつけられていく。主人公のこの「思い込み」はパラノイア的であり、共有する気にはなれないが、その出来事自体は奇妙で不思議なものであり宙に浮いたままだ。自分に起こった不思議な出来事はいつのまにかパラノイア的な思い込みで奥のほうへ押しやられている。そんな出来事が人生が進むにつれて掘り返され、繋がっていく。その過程が「世紀の発見」にはある。

『終わりの住処』と同じく『世紀の発見』でも時間が飛ばされる(ナイジェリアの滞在期間が一年から十年以上へ)そして日本に帰ってきて再び父母のもとへ赴く。母へのオブセッションや友人Aへの収束のさせ方は正誤で図ることはできない。主人公の男がそう思っているだけであり、その根拠のない思考の結末を糾弾したとしても奇妙な出来事は謎のままだ。主人公のように思う人もいれば、そうでない人もいる。ただ出来事だけは誰にでも起きている。出来事自体はあくまで小説的なものだと受けられがちだろうが、実際にそういう出来事は起きていて、いつのまにか我々が簡単な思い込みでやり過ごし、忘れているだけなのだ。佐々木敦が解説で言っているように、この小説は自分の現実として読まれる。

つい先日読んだピンチョンの『LAヴァイス』で導師であるヴェヒが言う『一見するとーーー二つの世界はバラバラだ。互いを関知することなく存在している。しかしどこかで必ずやつながっている』スピリチュアルだとか神秘主義だとかの批判はあるだろうが、実際にこのように捉えられてしまう出来事は星の数ほどある。


是枝裕和の『奇跡』は九州新幹線のPR映画だと捉えられそうだが、そんな時点では終わらせていない。辛辣な批判や皮肉は皆無だが、「九州新幹線」という縛りのもと物語を編み、映画を撮り切っている。主役は子どもたちで無茶な旅行の計画を立てなんとか目的を達成し、それぞれ家に帰っていく。あくまで純粋な子どもたちでないと成立しないという点でご都合主義は垣間見えるが、「九州新幹線」のイメージもあるだろうし仕方のないことだと思う。私はすっかり没入してしまい、弟と母の電話のシーン(あのつなぎは反則だと思う)や新幹線がすれ違う瞬間の前のスライドショーのような断片の羅列で涙を堪えきれなかった。ガス・ヴァン・サントの『永遠のぼくたち』と同じく批判すれば痛い目にあってしまうような映画。

子どもたちの人数分、プラス主人公の兄弟のエピソードがあり物語の中に多くの断片が散りばめられている。なんてことのない平凡な出来事なのだが、それらの断片が「九州新幹線の奇跡」というパラノイア的(都市伝説的)思い込みによって一所に集まり、大声で願い事を唱えることによってまたそれぞれの場所に戻っていく。前とは違う「気分」で。

「奇跡」が起きるかどうかは問題ではない。彼らが「奇跡」が起きることを信じて動いた事実とそれによって集積した出来事の変容。愛犬マーブルは死んだが、それを見つめる男の子の目は変わっている。同じところに留まって頭をこねくりまわしても辿り着けないし、大人たちに諭されても受け入れられない思考を彼らは手にして戻っていく。

「ものは考え様」「信じる者は救われる」という安易な格言は持ち出せない。そんなことをパソコンの前で言っていても何も変わらない。

長回しはなく短いカットのつなぎでテンポよく出来事を繰り出していき、人やモノを見させる。役者はみんな素晴らしい。子役のわざとらしさは子どもの嘘のようなしゃべり方に似ていて居心地はよくないが、不自然さはない。

出来事の捉え方は各人の自由であり、何者にも縛られていないはずだが、実際にはそうではない。他者や社会に支配されていれば自ずとその回路に絡めとられる。子どもたちはかろうじてその回路に取り込まれていない。このときのことを大人になって思い出すとき、それは時間と記憶によって不可解な出来事になっているかもしれない。

それをどう捉えるかで「奇跡」、「発見」の意味は変わっていく。


世紀の発見 (河出文庫)

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