セザンヌ / ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』

マックス・オフュルスの死によりジャック・ベッケルが代わりに監督を務めた『モンパルナスの灯』


美術史的な評価もそこそこに高い知名度と人気を誇るモディリアーニの不遇の晩年を描く。ジェラール・フィリップモディリアーニを演じている。ドンファンのように女に支えてもらいながらもアル中で身体を壊してしまい、売れないまま死に至る。不遇というより自分から苦悩を求め、死んでいったように見える。美しいモデルであり妻であるジャンヌとの出会いー別離ー再会ー結婚ー死別が中心に置かれ、お互いのクローズ・アップや印象的な光と影、海や山といった風景が映される。ジャンヌの顔はたしかにモディリアーニの絵の女の顔に似ており、美しい(鼻の穴が声を発する度に変形するのには驚いたが)


終盤に出てくるアメリカ人のブルジョワ夫婦は醜悪だった。宝石と絵。画家の言葉は無視され、広告に使うという。時代背景的にそんなことがありうるのかと思ったが、これはジャック・ベッケルのその当時の美術界への揶揄かもしれない。藝術と金。今でも映画中のモディリアーニのように広告で使われることをよしとせずにいくら金を積まれても断る、という作家はいるのだろうか。むしろ二次利用してもらわないと金がほとんど入ってこない、という状況ではないのか。モディリアーニはその当時売れない貧乏画家であり、断れば貧乏のままだ。そこで金に流れてしまえば批難されるのだろうか?作品の二次利用は現代では当たり前になっていて、ミュージアムショップを見ればわかるようにモディリアーニの絵が描かれたコップやクリアファイルが当然のように販売されている。藝術はアートという言葉によって汎用性のあるものへと変化し、いたるところに藝術作品が散見される。あいつは魂を売った、とか大げさな言葉が聞こえてきそうだがどんな使われ方がされようともその作品のオリジナリティは失われない(作品の強度によるが)こんなことを言い出すとベンヤミンあたりが出てくるのだろうが、複製や二次利用されるぐらいでオリジナルの質が落ちてしまうような作品は問題の外にある。しかし、やはりモディリアーニのように耐えられない作家もいるだろう。コピーのせいでイメージが変容させられてしまうのは避けられないし、二次利用の商品は作品ではないのにイメージは作家に帰属する。


ブルジョワ夫婦の購入した作品のなかにセザンヌがあった。セザンヌの風景は二次利用に向かないだろうから豪邸の壁に飾るつもりなのだろう。セザンヌは生前に批評家に認められた作家として出てくる。たしかにモディリアーニゴッホのように悲劇的な最期を迎えていないし、庭師や妻の肖像画も人間性というよりその形式や筆致が注視されている。国立新美術館で4月より開催されているセザンヌ展では初期から晩年に至るまでの作品がバランスよく展示されている。セザンヌの絵といえば後期という印象が強かったため初期の作品は新鮮であった。壁画や宗教画の凡庸さに驚き、印象派を経て抽象画へと向かう。「近代絵画の祖」という言葉がよく理解できる。初期の作品にもセザンヌらしい筆致や色使いは見えるが、そこに留まっていれば他の画家の作品とたいして変わらない平凡な画家で終わっていただろう。

水浴図あたりから画布中の人物・モノの配置や男と女を別にして描くといった特異性が認められるようになる。よって性の戯れはなく、牧歌的な雰囲気が漂う。しかし、自然とは言い難い人の配置である。構図のために犠牲にされた人物といった感じだ。そしてサントヴィクトワール山。『自然は辞書』であり『読む』ものだという言葉通り、写実ではなく感覚を通過しイメージが増幅した自然が描かれる。描くために自然を見るときにその要素ーー木々、草、葉、家々ーーはもちろん重要だが色を出現させる「光」がそこにはある。マラルメが『いかなる芸術家もパレット上に、外光に対応する透明で無色の絵具は持っていない』言うように、自然の再現は不可能である。再現が不可能だとわかれえば、セザンヌのやり方になる。

モディリアーニは愚直に人間性を追った。あれだけ周りに女たちがいて、しかもみんな好意をもってくれていればそうなるのも無理はないかもしれない。理想を常に追い求める伝統的な芸術家でありつつ肖像画という形式の外には出なかった。その形式を無化するほどの力がモディリアーニにあっただろうか。瞳のない眼、独特の曲線をもつ輪郭。モディリアーニのものでしかない。後世代への影響という点では新しい形式を生み出したセザンヌのほうが大きいだろう。モディリアーニは一個人に可能なることを限界まで押し進めて死んでいった。他人が使えるものは何も残さずに。


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