トマス・ピンチョン「LAヴァイス」/デビッド・クローネンバーグ「ビデオドローム」

ピンチョンの新訳、最新刊『LAヴァイス』が出た。初邦訳。『競売ナンバー49の叫び』『ヴァインランド』に並ぶカリフォルニアを舞台にしたノワール小説。2009年に書かれた本書はこれまでで一番読みやすい。やたらと情報としての指標が立ち並び、説明もなく新たな登場人物が出てくる従来のピンチョンの小説とは違って情報が絞られて丁寧に書かれている。しかし、らしさは前面に出ている。比喩や会話でいちいちうまいこと言っていて笑ってしまう。探偵ものの長編ということでチャンドラーを連想したが、あの微妙に重たい情景描写はなく、ピンチョンは一段落で過去の出来事をテンポよく書き上げ、物語は「グルーヴィー」に進んでいく。

ピンチョンは文学なのか娯楽なのか。日本の一読者から見ると映画におけるイーストウッド的立場にピンチョンはいるような気がする。ポップさ、過剰な情報、存在自体が思想的な人物たち。紛れもなく文学であり、それでも売れているのは情報による娯楽性、軽さが覆っているからなのだろう。

『メイスン&ディクスン』は柴田元幸の10年もかけた翻訳のおかげですらすらと読むことができず、細切れの情報しか残らなかった。残念。

ピンチョンは初期に人物の空疎さを指摘されていた。たしかに『競売ナンバー49の叫び』や『スローラーナー』の登場人物は誰一人として頭に残っていない。ヌーヴォーロマンの影響でも受けていたのだろうか、そんなヨーロッパの動きには無関心なはずのアメリカで新しい小説は生まれていたのだ。

そしてデビッド・クローネンバーグの『ビデオドローム』。ピンチョンにはまったく関係がない。アメリカものというだけである。最近、ヌーヴェルバーグやベケットウェルベックドゥルーズなどフランスものが多かったからその反動がきてこの映画を観ることになった。B級映画っぽい粗い画面、陳腐な特殊効果。しかし、面白い。あっというまに見終わる。幻想が一区切りで終わるのではなく、主人公のCS番組制作会社の社長マックスが幻想を見始めてからずっと夢のような幻想を見せつけれられる。話のなかでは一応幻想と現実の区別はあるようだが、悪夢からうなされて目を覚ましたマックスの隣に夢の中で殺したおばさんがいて部下を呼ぶが、死体は消えており、観てる側はマックスと同じような状況に置かれる。恐怖心は、ない。驚かせたり怖がらせたりするのは目的ではないのだろう。

録画されたビデオが幻想をひき起し、洗脳していく過程はテレビのそれと変わりない。ビデオドロームをつくった教授の娘の目的はビデオドロームを使ってテレビによる洗脳を終わらせることなのだろう。幻想に憑かれたマックスを助けるという嘘をついてさらなる洗脳をかけ、ビデオドロームを手に入れようとする眼鏡屋の社長はさながら買収をしかけてパイを増殖させるどこかの社長のようだ。いたちごっこ。陳腐なショーのあとに大衆の前で得意そうに語る社長をマックスが銃で穴だらけにするとその穴が広がり、社長の気色悪い臓器や脂肪がそこから出てくる。なんとも醜悪な内臓。社長と結託していたマックスの部下もマックスの腹に手をつっこんでビデオを入れて洗脳しようとするが、その手を時限爆弾に変えられてしまい爆死する。警察の目を逃れようと港の小屋にマックスが入るとセックスフレンドだったどM女がテレビ画面に現れ、自殺を促す。マックスは抗うことなく引き金をひき、おわり。

マックスに幻想から逃げたいという意志は見えたが、テレビやビデオへの執着は消えていないようだった。洗脳に次ぐ洗脳で死は免れえなかった。山本直樹の『テレビばかり見てると馬鹿になる』という短編マンガ(映画化もされてる)では引きこもって横になったままテレビを見ている女の家にカウンセラーの男がやってきてなんとか外に連れ出すが、電車に乗れず屋上で二人が話しているところで終わる。家にやってきて女とセックスして中出しするサングラスの男をカウンセラーの男がゴミの中に隠れて見ているというシチュエーションや屋上でじゃんけんで負けたほうが飛び降りるという洒落にならないゲームは異様である。すべてはテレビを見すぎた女の幻想かもしれないし、現実感を失った女が自殺したがるという悲劇かもしれない。

「昨今のテレビは面白くない」よく聞く言葉だがネットが出てきてテレビによる洗脳というのは忘れられたような感がある。しかし、依然としてテレビのある家庭は多く、家族団らんの場ではテレビが中心にあるのではないか。もちろん十代から二十代はテレビよりネットに向かっているだろうが、大して変わりはない。ネットサーフィンは基本的に情報を自堕落に受けとっていく受動的なものである。ネットが広まってから情報リテラシーの重要性が叫ばれたが、テレビが出たときにもそうされるべきであった。情報源が少ない時代ーー新聞、テレビ、ラジオーーの人々は盲目的にそれらの情報を信用する恐れが高く、それはほとんど洗脳されていると言えるだろう。マックスは幻覚には自覚的であったが、根源の洗脳には気づく余裕がなかった(あれだけ断続的に幻想が繰り出されれば仕方ない)。自らの欲望がすぐに消えてなくなる幻想だとわかっていても金を欲しがりそれを手に入れようとする。大企業のマーケティングに乗せられていることに自覚的な人々はどれぐらいいるのだろうか。ほとんどのものがその網に絡められているが、自分の欲望に目を向けることでそこから抜け出せる可能性は生まれる。気づいていても見つめなければすぐに忘れてしまい、死ぬまでその網の中で生きることになる。どれほど不要なものがつくられ、消費されていることか!

まったく難解な映画ではない。難解だとされるのは先述した幻想と現実の境界が曖昧であるからだろう。難解とされてカルト的人気へ、という悲劇的なコースを辿ってしまったのは残念である。もしくはテレビフリークが怒っただけなのかもしれない。「テレビばかり見てると馬鹿になる」という紋切り型は間違っていない。

破天荒ながらある種危険なわかりやすさをもつアメリカ映画。この「わかりやすさ」には気をつけなければならない。ピンチョンの文章は読みにくいがわかりにくくはない。しかし、すらすらと読み進めていっても(LAヴァイスは特に)ピンチョンのような偉大な作家の読み方としては勿体ない。娯楽として読めてしまう危険性は現代の文学につきまとう不安だ。どんなにB級映画のように、低俗に見えても読むことはやめてはいけない。ポップなアメリカ文学、アメリカ映画はだから強いのだろう。


トマス・ピンチョン全小説 LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

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