エリック・ロメール「三重スパイ」

フランス未公開傑作選より。

1930年中頃〜40年前半、フランス在住のスパイの男フョードルとギリシャ人の美人妻アルシノエ、その友人の悲喜劇。音はほとんどなく会話の声が中心にある。全体を通して静かな映画である。実話に基づいた創作で、結末は知っている人は知っているのだろう。私は知らなかったのでたいそう驚いた。

『刑事ベラミー』のように慎み深く、老齢にさしかかった仲睦まじい夫婦の関係が描かれているように見えるが、スパイという職業上、フョードルはすべてをアルシノエに話すことができず軋轢が生まれ、悲劇に繋がる。ごくわずかな疑い、亀裂を直視せずにうわべのキスを交わしても不意に音もなく断絶は訪れる。フィッツジェラルドの小説のようである。アルシノエはキュビズムなどの抽象画に理解を持たず、古典的な風俗画を描きつづける。しかし、そこからは牧歌的な雰囲気しか見て取ることはできず「真実」は見えてこない。フョードルにすべてを話してくれるよう訴え、フョードルも必死さを装って話をするがアルシノエに疑惑は晴れず、ナチの手先じゃなかったのね、と衝撃的な告白をさらりと言いのける。フョードルは信じてもらえれば都合のよい事柄を妻が信じてくれたことで、その疑いの目を気にするより先に歓びの抱擁を交わす。しかし、油断から致命的なミスを犯し、妻を置いて逃亡する。妻は濡れ衣を着せられ、獄中で死を迎え、フョードルもやがて母国ソ連の手によって殺される。

画面はほとんど二人の家、友人の家、別荘、カフェと屋内を映し出す。遊郭のセットの中だけで完結させたホウ・シャオシェンの『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の夢のような味わいは希薄であり、他愛もない酒飲みじゃんけんを繰り返し、女を追いかける男たちとは対照的にフョードルと夫妻のまわりにいる友人は口を開けば政治の話ばかりだ。妻はだいたい黙って聴いている。そこからフョードルが自分に何も話してくれていないことを知り、口論になる。

夫は妻のためを装って別荘へうつり、さらにそこからロシアへ帰ろうとする。この時代でも新鮮な「空気」は病に効くと思われていたのだろうか。しかし、すべて偽りだった。そこまでさせたのはやはりブルジョワへの憧れ、名誉への執着だった。なんともお粗末。妻アルシノエの純粋な心は何にもならず、愚にもつかない男によって死へ追いやられてしまった。真実を見抜けなかったアルシノエを責めることはできない。可哀想だ、と何も知ることができなかった私を含めまわりの警察官が同情する。それこそ何にもならないが。

破れかぶれになったスパイはあっさりと死んだ。そこまでして生きたいと願える時代だったのだろうか。あるいは良心の呵責がスパイにもあって自ら死へ赴く道を選んだのだろうか。

その真実はわかりえない。

フョードルの話法で見事だったのはキュビズムを愛好者の目前で表情豊かにあけすけに批判するようにどうでもよいような事柄で正直なところを示し、肝心なところでははぐらかして質問を始めるところだ。見事に騙された。妻を何よりも愛するが故の決断かと思われたが、すべてはハナから決まっていたのだ。失敗だけが予想外だった。たった一度の想定外で死に連れて行かれるシビアな世界なのであろうが、それすらも知らされていなかった妻は無知ゆえに同情を誘う。

まったく対等ではない。情報から知識から立場まで、すべて男の支配下にあり妻は同情を誘うこと、愛に訴えることしかできない。戦中であるからまだこの両者の立ち位置はごく当たり前のものだったのだろう。しかし、現代でも「主婦」に代表される多くの女性が同じような立場にある。女を描く時代は終わり、女が描く時代だ。男と女、この区別はごくごく当たり前のものであるが、疑う必要がある。日本では未だに年齢、結婚、出産が重々しく女性にのしかかっている。それでも幸福ならそれでいいのかもしれないが、そんなフョードルの嘘のような幸せが必要だろうか。


映画の國名作選 V フランス映画未公開傑作選

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